第31話 採掘権
自由都市リミニの夜は、家々から灯りが漏れ、それがどこまでも続いてく。経済的な繁栄をその光景が映し出していた。
ロレンツォの屋敷の奥まった部屋。普段は使われないその部屋は、燭台の数が少なく、極端に暗い。豪奢な調度品が半分だけ闇の中に沈んでいる。ロレンツォが椅子に腰かけていた。いつもの重厚な執務室ではない。それだけで、この会話が——記録に残すべきではない話だと分かる。
傍らにマルティーノが立っている。静かな目で、主を見守っていた。
「遍歴の騎士、ファブリツィオ」ロレンツォが穏やかな声で言う。「お前ほどの男が……手も足も出ずに帰ってきたか」
「想定外でした」
ファブリツィオが答えた。普段は寡黙な男だ。それが今夜は、言葉を持って帰ってきた。
「あのアルヴィンという男。雑貨屋などでは——ありません」
「では、何だと?」
「恐らくは……エアル宰相の影の諜報機関です」
ロレンツォは眉ひとつ動かさない。
「私が入国した時から、全ての行動をマークされていました。誘拐のための人員は入念に選びましたが——全員の動きが把握されていた。そして、水に毒を盛られました」
部屋の中に沈黙が落ちた。
ロレンツォはしばらく天井を見ていた。
「……それは」低く言う。「宰相が……直接動いているということかね」
「恐らくは」
「ルートヴィヒ・フォン・エーレンベルク。……以前に会ったときは」ロレンツォが独り言のように続ける。「そこまでできる男とは——思えなかったが」
「面白い」
片眼鏡を取り出した。丁寧に、布で拭く。ファブリツィオには、もう用がないという意味だ。マルティーノが遍歴の騎士を出口へ静かに導いた。
戻ったマルティーノに、ロレンツォが言う。
「いつもの『耳』を使ってみるか……」
ランプの炎を、しばらく見つめる。
「マルティーノ、エアルのオットー財務卿に伝えろ。銀行に——大口融資をすると」
「承知いたしました」
穏やかな、いつもの声だった。
◇
酒場『金色の麦』二階への階段を上がると、古い丸テーブルがある。六人がそこに集まっていた。ナディール、アルヴィン、リーナ、フェルディナント、エルネスト、カッシオ。ランプの灯りが六人の顔を照らしている。
これが、ファブリツィオの言う「影の諜報機関」だった。
ナディールが羊皮紙の束を机に置いた。静かに全員を見渡す。
「蒸留所の——父の部屋から、資料が出てきた」
一呼吸、間を置く。
「父は、ある物質の研究をしていた。魔導物質。父はそれを——『アルカーナム』と名付けていた」
「アルカーナム……」エルネストが繰り返す。首を横に振る。「聞いたことが——ありません」
リーナもカッシオも、同じように首を振った。
「特徴は、大きく三つだ」ナディールが続ける。「全ての魔法を——増幅させる。副作用が出ない。使われたら——消える」
「使われたら、消える?」エルネストが眉をひそめた。
「残滓も残さずに、この世から消滅すると——記録にあった」
リーナがそっと手を上げた。「……それですが」
全員の目がリーナへ向く。
「蒸留所の研究室で見つけた粉と——同じです。砂糖一粒ほどの、白い粉でした。指で触れたら——壁の広い範囲が、真っ白になって。でも、私に汚れは移らなかった。そして……粉は、消えました」
エルネストが大きな手を見た。
「それを使って守護魔法をかけたら——?」
「研究記録には——アルカーナムの量によるが、軍団を丸ごと不死身にできると書いてあった」
「不死身に……」エルネストが絶句した。
「し、失礼ですが」少し手を上げて、おずおずと聞く。「私が使ったら——みんなのお腹が、長時間痛くなるのでしょうか。効果が増幅ということは」
場が、一瞬和んだ。カッシオが小さく咳払いをした。
「アルカーナムはどこにあるんですか」
ナディールが別の羊皮紙を広げた。
「カラカスの地に埋蔵されている。水にはほとんど溶けないが、温水だと溶けだす。それを更に蒸留することで——純粋な結晶を得られる」
「そのための蒸留所か」アルヴィンが呟いた。「研究室の小さな蒸留窯は実験用。大きな蒸留窯は——量産用だったんだな」
「そうなる」ナディールがもう一枚広げた。「もう一つ。精密な測量地図が残っていた」
机の上に広がる地図。カラカス地方の細かな地形が、几帳面な字と数字で埋め尽くされている。地図の上に、小さな点が散らばっていた。試掘の跡だ。点が次第に大きくなっている。絞り込まれていく。地図の一角を、ナディールが指で示した。
「ここまで——辿り着いていた」
誰も、しばらく声を出さなかった。
父が、あの部屋で。夜ごと。一人で採掘の記録をつけていた。
「これなら、採掘を進められます」リーナが言った。真剣な目で地図を見ている。
ナディールが顔を上げた。全員の顔を見渡してから——
「父は、このアルカーナムで——この国の未来を守ろうとしていた」
厳しい声に変わる。
「分かっていると思うが、アルカーナムのことは他言無用だ」
全員が緊張した。ナディールはこれまでと何かが違う。蒸留所に隠されたフリードリヒの書斎から出てきた時から。この男は——変わった。
「これが世に知られれば争奪戦が始まる。秘密裏に採掘しなくてはならない」
ナディールの言葉が部屋に沈んでいく。全員が頷いた。
アルヴィンはナディールの顔をしばらく見ていた。それから——目がキョロキョロし始める。
「……でも」
全員がアルヴィンを見る。
「採掘はこれからだし——材料を、もう用意してしまったんだ。蒸留窯の修理も終わっているし——試運転を兼ねて、あそこで蒸留酒を作っても——問題ないよね」
意表をつかれたナディールが——アルヴィンを見た。迷いの色がある。
「……好きにしろ」
◇
クラウス・ホーファーの家。カラカス地方の農家だ。イサッコから土地を取り戻し、半年ぶりに自分の家に帰れた。
アルヴィンが訪ねると、クラウスが扉を開けた。
「アルヴィンさん」
暗い室内。冬場は耕作ができない。農具を壁に掛け、順番に磨いている最中だった。
「入ってください」
クラウスに促されてアルヴィンは中に入った。炉の火が、部屋をほんのり温めている。
「半年間、放り出されていたので」クラウスが鍬を手に取る。大きく変形した手だ。「手入れが——大変です」悔しそうに言う。「秋の収穫も、出来なかった」
と言ってから——顔を上げる。
「でも。農夫に戻れた。春までに準備を進めて——今年こそ、自分の手で収穫します」
アルヴィンが頷きながら聞いている。
「……実はね。今日は、相談があって来たんだ」
「何でしょう」
「土地を取り返したと言っても——あんたには、まだ借金がある」
クラウスがギクリと体を引いた。
「そこで提案なんだが」アルヴィンは椅子に腰かけた。「採掘権を——売ってくれないか」
「採掘権?」
「以前に俺たちが試掘しているのを——見ただろう。この土地に、資源が埋まっているかも知れないんだ。あんたの畑は掘らない。畑が汚染されるようなこともしない」
クラウスは少しの間アルヴィンの目を見た。
「……あなたの言うことです」静かに言う。「信用します」
アルヴィンが鞄から羊皮紙を取り出した。クラウスの前に差し出す。
クラウスは書類を受け取った。細かな字を目で追っていく。指が、数字のところで止まる。
「……こんなに」呟く。「借金を返しても——有り余る。これなら、今年撒く種も買える。肥料も——譲ってもらえる」
書類を持つ手が、震えていた。
「今度こそ本当に——農夫に戻れるんですね」
声が詰まった。嗚咽。クラウスの肩が、小さくなる。
アルヴィンはその様子を黙って見ていた。急かさない。何も言わない。ただ——温かい目で、見ている。
手遅れじゃなかったな。ジタバタしてみるもんだ。
心の中で——静かに、噛みしめた。




