第30話 セルヴィアの天秤
法王国セルヴィア。総本山の、奥の間。高い天井。石の壁。薄明かりの中に——天秤の紋章が浮かんでいる。
インノケンティウス5世は椅子に座っていた。七十代。白い法衣。皺の深い顔。でも——目だけが、若い。確信に満ちた、目だ。
使者が跪いていた。旅の埃がまだ外套についている。エアルから——急いで戻ってきた男だ。
「エアル王国より——返書が届きました」
羊皮紙を差し出す。法王の侍従が受け取り、法王の前に広げる。
法王は読んだ。ゆっくりと。一字ずつ。
沈黙。
「ヴェルダが——棲んでいると?」
静かな声。
「はい」使者が頭を下げる。「エアル王国からの——正式な返書にございます」
法王は羊皮紙から目を離した。窓の外を、見た。セルヴィアの空。高く、青い。
「神は——」呟く。「すでに、あの地をお守りになっていた」
侍従が静かに立っている。使者は頭を下げたまま動かない。
「我々が聖域化するまでも——なかったということか」
法王は目を閉じた。しばらく。
「神の思し召しである」
静かな、しかし迷いのない声。
「聖域化の要求は——取り下げる」
「御意に」侍従が頷いた。
法王は立ち上がった。窓の方へ歩く。外を、見る。
「ヴェルダか。神は——細部にまで、御心を行き渡らせておられる」
そして——振り返った。
「しかし」
使者が顔を上げた。
「証を——取らねばならぬ。ヴェルダが棲む聖地として記録するためには、複数の証言を正式に記録せねばならぬ」
「調査団をエアルに送れ。現地において、証人から聴取するのだ。神の御業をきちんと記録に残せ」
「承知いたしました」侍従が頭を下げた。「調査団の団長は誰に」
法王は少し考えた。
「シュテファンを行かせよ。あの修道士は正直者だ。見たものを、見たままに記録する」
「御意に」
法王は、また窓の外を見た。
「ヴェルダよ。神はお前を通じて、この地を、守っておられるのだな」
窓から——セルヴィアの空が広がっていた。高く。青く。どこまでも。
◇
エアル。王都の教会。石造りの古い建物だ。
門の前に——馬車が止まった。セルヴィアの天秤の紋章を掲げた一行だ。高位の修道士と随行者が数名。
ナディールとエアルの司教が緊張した顔で迎える。
遠目に——アルヴィンたちが見ていた。公の立場にない者は参加できない。見守るだけだ。
カッシオだけが、エアル側の事務員として紛れ込んでいる。袖のたすきが、少し落ち着かない。
一行を率いるのは——シュテファン修道士だ。四十代。背は高くない。でも——目が、静かだ。見たものをそのまま受け取ると評された男。天秤の紋章を胸に掲げて厳かに告げる。
「これより、カラカス地方に聖獣ヴェルダがおられるか——証言をお聞きします」
◇
教会の内部。蝋燭の灯りが壁を照らしている。
最初の証言者が前に進み出た。クラウス・ホーファーだ。日焼けした顔。変形した手。質素な服を着て——まっすぐ立っている。
シュテファン修道士が静かに言った。
「これは……神への証言です。偽りを申してはなりません。隠し事もままなりません。神は全てを見ておられます」
一呼吸、置く。
「よろしいですね」
「はい」クラウスが答えた。
「あなたは……。あの地に聖獣ヴェルダが棲まわれていると信じますか」
クラウスが——語り始めた。
「私は子供の頃から——ずっとあの土地に住んでいました。あの土地には、何かがいます。鳴き声を聞くこともありましたが、……それよりも、気配です。夜明け前に畑に出ると、他の土地とは空気が違いました」
シュテファン修道士が羊皮紙に記録している。
「常にその気配を感じていたわけですね」
「常に?」クラウスが首を横に振った。「いえ、十年ほど前に、気配が消えました」
ナディールが——息を飲んだ。十年前。あの夜。
「ほう」シュテファン修道士がペンを止めた。「それでは今は、……気配が無いと」
「いえ」クラウスが言った。「今はあります。気配が戻ってきたのは、半年ほど前です」
シュテファン修道士が——クラウスを見つめた。誠実な目で。しばらく——そのまま見ていた。
「分かりました」静かに言う。「以上です」
◇
二人目の証言者が前に進み出た。仮釈放中のイサッコだ。囚人服ではなく普通の服を着ている。でも、痩せた顔は隠せない。
シュテファン修道士がイサッコを見た。
「あなたは——最初の証人から、土地を騙し取ったそうですね」
「そうです」イサッコが答えた。
「そして、投獄されている」
「更生の、機会をいただいております」
シュテファン修道士が羊皮紙を手に取った。
「ではお聞きします。あの地に、聖獣ヴェルダが棲まわれているでしょうか」
「地元の者たちはそう信じています」
「あなたはどう思いますか」
イサッコが——少し下を向いた。
「姿を見たことはありません。でも、鳴き声は、時々聞きました」
間があった。
「私に——後ろ暗いことがあったせいかも知れませんが……」
「その声を聞くと胸が痛くて」
小さな声。
「こうして捕まったのも、罰なのかも知れません」
教会の中が——静まり返った。蝋燭の炎が揺れている。
「分かりました」シュテファン修道士が言った。「以上です」
◇
聴取が終わった。ナディールとエアルの司教、シュテファン修道士たちが向かい合っている。
「これは慎重を要する案件ですから」シュテファン修道士が言う。「正式な結論は教皇が下されます」
一息、置く。
「ですから、……これは暫定的な判断にはなりますが」
部屋が静まった。
「私は証人の言うことに——偽りはない、と思います」
ナディールが頷いた。深く。
「ありがとうございます」
◇
門の外。シュテファン修道士たちの馬車が動き始めた。石畳の上を、ゆっくりと進んでいく。
ナディールとカッシオが遠目に見送っていた。
「とても良い方でしたね」カッシオが呟く。「私など、出る幕がなかった」
「ああ」ナディールが馬車を見ながら言う。「セルヴィアとは友好を保ちたい。シュテファン修道士は良い窓口になるな」
馬車が——角を曲がった。石畳の音が、遠くなっていく。
◇
一行の馬車が街道を走っていた。
シュテファン修道士は——窓の外を見ていた。エアルの冬の野原。枯れ草が風に揺れている。
その時。
ケェケェーン。
遠く——高く——澄んだ声が、聞こえた。
シュテファン修道士は目を閉じた。そのまま馬車に揺られ続ける。
そして——静かに、ほほ笑んだ。




