表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
30/100

第30話 セルヴィアの天秤

 

 法王国セルヴィア。総本山の、奥の間。高い天井。石の壁。薄明かりの中に——天秤の紋章が浮かんでいる。


 インノケンティウス5世は椅子に座っていた。七十代。白い法衣。皺の深い顔。でも——目だけが、若い。確信に満ちた、目だ。


 使者が跪いていた。旅の埃がまだ外套についている。エアルから——急いで戻ってきた男だ。


「エアル王国より——返書が届きました」


 羊皮紙を差し出す。法王の侍従が受け取り、法王の前に広げる。


 法王は読んだ。ゆっくりと。一字ずつ。


 沈黙。


「ヴェルダが——棲んでいると?」


 静かな声。


「はい」使者が頭を下げる。「エアル王国からの——正式な返書にございます」


 法王は羊皮紙から目を離した。窓の外を、見た。セルヴィアの空。高く、青い。


「神は——」呟く。「すでに、あの地をお守りになっていた」


 侍従が静かに立っている。使者は頭を下げたまま動かない。


「我々が聖域化するまでも——なかったということか」


 法王は目を閉じた。しばらく。


「神の思し召しである」


 静かな、しかし迷いのない声。


「聖域化の要求は——取り下げる」


「御意に」侍従が頷いた。


 法王は立ち上がった。窓の方へ歩く。外を、見る。


「ヴェルダか。神は——細部にまで、御心を行き渡らせておられる」


 そして——振り返った。


「しかし」


 使者が顔を上げた。


「証を——取らねばならぬ。ヴェルダが棲む聖地として記録するためには、複数の証言を正式に記録せねばならぬ」


「調査団をエアルに送れ。現地において、証人から聴取するのだ。神の御業をきちんと記録に残せ」


「承知いたしました」侍従が頭を下げた。「調査団の団長は誰に」


 法王は少し考えた。


「シュテファンを行かせよ。あの修道士は正直者だ。見たものを、見たままに記録する」


「御意に」


 法王は、また窓の外を見た。


「ヴェルダよ。神はお前を通じて、この地を、守っておられるのだな」


 窓から——セルヴィアの空が広がっていた。高く。青く。どこまでも。


 ◇


 エアル。王都の教会。石造りの古い建物だ。


 門の前に——馬車が止まった。セルヴィアの天秤の紋章を掲げた一行だ。高位の修道士と随行者が数名。


 ナディールとエアルの司教が緊張した顔で迎える。


 遠目に——アルヴィンたちが見ていた。公の立場にない者は参加できない。見守るだけだ。


 カッシオだけが、エアル側の事務員として紛れ込んでいる。袖のたすきが、少し落ち着かない。


 一行を率いるのは——シュテファン修道士だ。四十代。背は高くない。でも——目が、静かだ。見たものをそのまま受け取ると評された男。天秤の紋章を胸に掲げて厳かに告げる。


「これより、カラカス地方に聖獣ヴェルダがおられるか——証言をお聞きします」


 ◇


 教会の内部。蝋燭の灯りが壁を照らしている。


 最初の証言者が前に進み出た。クラウス・ホーファーだ。日焼けした顔。変形した手。質素な服を着て——まっすぐ立っている。


 シュテファン修道士が静かに言った。


「これは……神への証言です。偽りを申してはなりません。隠し事もままなりません。神は全てを見ておられます」


 一呼吸、置く。


「よろしいですね」


「はい」クラウスが答えた。


「あなたは……。あの地に聖獣ヴェルダが棲まわれていると信じますか」


 クラウスが——語り始めた。


「私は子供の頃から——ずっとあの土地に住んでいました。あの土地には、何かがいます。鳴き声を聞くこともありましたが、……それよりも、気配です。夜明け前に畑に出ると、他の土地とは空気が違いました」


 シュテファン修道士が羊皮紙に記録している。


「常にその気配を感じていたわけですね」


「常に?」クラウスが首を横に振った。「いえ、十年ほど前に、気配が消えました」


 ナディールが——息を飲んだ。十年前。あの夜。


「ほう」シュテファン修道士がペンを止めた。「それでは今は、……気配が無いと」


「いえ」クラウスが言った。「今はあります。気配が戻ってきたのは、半年ほど前です」


 シュテファン修道士が——クラウスを見つめた。誠実な目で。しばらく——そのまま見ていた。


「分かりました」静かに言う。「以上です」


 ◇


 二人目の証言者が前に進み出た。仮釈放中のイサッコだ。囚人服ではなく普通の服を着ている。でも、痩せた顔は隠せない。


 シュテファン修道士がイサッコを見た。


「あなたは——最初の証人から、土地を騙し取ったそうですね」


「そうです」イサッコが答えた。


「そして、投獄されている」


「更生の、機会をいただいております」


 シュテファン修道士が羊皮紙を手に取った。


「ではお聞きします。あの地に、聖獣ヴェルダが棲まわれているでしょうか」


「地元の者たちはそう信じています」


「あなたはどう思いますか」


 イサッコが——少し下を向いた。


「姿を見たことはありません。でも、鳴き声は、時々聞きました」


 間があった。


「私に——後ろ暗いことがあったせいかも知れませんが……」


「その声を聞くと胸が痛くて」


 小さな声。


「こうして捕まったのも、罰なのかも知れません」


 教会の中が——静まり返った。蝋燭の炎が揺れている。


「分かりました」シュテファン修道士が言った。「以上です」


 ◇


 聴取が終わった。ナディールとエアルの司教、シュテファン修道士たちが向かい合っている。


「これは慎重を要する案件ですから」シュテファン修道士が言う。「正式な結論は教皇が下されます」


 一息、置く。


「ですから、……これは暫定的な判断にはなりますが」


 部屋が静まった。


「私は証人の言うことに——偽りはない、と思います」


 ナディールが頷いた。深く。


「ありがとうございます」


 ◇


 門の外。シュテファン修道士たちの馬車が動き始めた。石畳の上を、ゆっくりと進んでいく。


 ナディールとカッシオが遠目に見送っていた。


「とても良い方でしたね」カッシオが呟く。「私など、出る幕がなかった」


「ああ」ナディールが馬車を見ながら言う。「セルヴィアとは友好を保ちたい。シュテファン修道士は良い窓口になるな」


 馬車が——角を曲がった。石畳の音が、遠くなっていく。


 ◇


 一行の馬車が街道を走っていた。


 シュテファン修道士は——窓の外を見ていた。エアルの冬の野原。枯れ草が風に揺れている。


 その時。


 ケェケェーン。


 遠く——高く——澄んだ声が、聞こえた。


 シュテファン修道士は目を閉じた。そのまま馬車に揺られ続ける。


 そして——静かに、ほほ笑んだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ