第29話 父の書斎
カラカス地方。蒸留所。修復が終わった石壁に——冬の光が当たっていた。
ナディールの馬車が止まった。
扉の前に——アルヴィンと木こりが待ち構えていた。
馬車の扉が開く。ナディールが降りてくる。
木こりが——膝をついた。逞しい手が地面につく。
「顔を上げてくれ」ナディールが言った。「父が——世話になった」
木こりが顔を上げた。真正面から——ナディールを見る。そのまましばらく見続ける。
「フリードリヒ様は……」木こりがゆっくりと話し始めた。「分け隔てのない——方でした。近くに住む者が——差入れをすると、喜んでくださって」
ナディールは黙って聞いている。
「いつも」木こりが続ける。「熱心に——そして楽しそうに、研究をされていた。子供たちが——胸を張って生きられる国にすると、いつもおっしゃっていました」
風が吹いた。冬の、冷たい風。
「それが——あの夜」木こりの声が少し低くなった。「突然——お出でになり、そして——天井を突き破って、天にも届くような——光が」
木こりが蒸留所の屋根を見上げた。今も——天井の穴が、残っている。
「その後、王宮に戻られて——ほどなく。お亡くなりになったとお聞きしております」
ナディールは——何も言わなかった。ただ、蒸留所の壁を見ていた。
「お連れしたい所が——あります」木こりが立ち上がった。
◇
蒸留所の中を三人が進む。石の廊下。銅の蒸留窯——今では磨き直されて、光っている。
研究室へ入った。小さな蒸留窯がある。壁は塗り直されて——リーナが染みを消した跡は、もう分からない。
木こりが壁際の本棚の前に立った。本棚を——押す。ぎぃ、と音がした。
本棚の後ろに——小さな階段があった。下へと続いている。
「フリードリヒ様の——書斎です」木こりが言った。「研究結果を——まとめていた部屋です」
ナディールを見る。
「どうぞ——お一人で。ここは——そういう部屋です」
ナディールが——頷いた。一歩踏み出す。階段を、降りていく。
足音が——遠くなる。
アルヴィンと木こりが残された。二人とも——黙っている。壁を見ている。研究室の小さな窯の上にもヴェルダの絵がある。大きな翼が、羽を広げていた。
時間が、流れた。
◇
半地下の部屋。横長のスリット窓から——冬の光が差し込んでいる。細い、静かな光だ。
ナディールは——立ち尽くしていた。
綴られた羊皮紙の束。小さなベッド。夜遅くまで研究に明け暮れて——ここに眠り込んだのだろう。
机の前に椅子がある。ナディールは——ゆっくりと、腰かけた。父の椅子に。
机の上の束を手に取る。最初に目に入るのは——蒸留の技術記録だ。几帳面な数字と図。丁寧な、字だ。
この字は見たことがある。子供の頃に——文字の書き方を教えてくれた。あの時の字だ。
次の束。魔法の記録。守護魔法の効果。治癒魔法の効果。細かな観察と——失敗の記録。
次。ヴェルダ観測。几帳面に記された日付、季節、鳴き声の方角。十年以上にわたる——証言の記録だ。
アルカーナムと書かれた束を取り出す。二つに分かれている。効果の分析と——地図だ。
地図を広げる。カラカス地方の精密な地図。採取した土の分析結果が——書き込まれている。一点一点。丁寧に。
埋蔵地に——近づいていた。もう少しで——辿り着けていた。
ナディールは地図を机に置いた。効果の束を手に取る。パラパラと——めくる。
『魔導物質アルカーナム:全ての魔法反応を倍増させる究極の触媒』
『その特徴は、魔法の副作用を打ち消し、主作用だけを倍増させる』
めくる。
『使用されたアルカーナムは失われる』
『何の残滓も残さず——まさにこの世から消滅する』
めくる。守護魔法、治癒魔法、炎の魔法——様々な魔法への作用が書かれている。
父は——この部屋で。夜ごと。一人で——考えていたのだ。
『アルカーナムは高温で抽出できる』
『蒸留することで——純粋な結晶になる』
そのために——蒸留所を建てた。
最後のページ。ナディールは——めくる手を、止めた。
『アルカーナムの蓄えがあれば』
『軍事的、経済的、宗教的——あらゆる弾圧を跳ね返せる』
一行。
『為政者には、限られたアルカーナムを——何に使うかが委ねられる』
一行。
『神になってはならない。悪魔になってもならない』
『人として——最善の道を』
そして——最後の一行。
小さな字で。
『間に合わなかった』
そこで——ノートは終わっていた。
ナディールは、羊皮紙を見つめた。動かない。
父が——ここにいた。そう思った。
◇
階段を——上ってくる足音。
アルヴィンが欠伸をおさえようと上げた手が途中で止まった。
ナディールが立っていた。
顔が——違う。これまでと。何かが——変わっている。言葉にならない。でも——分かる。覚悟を背負うことが、人の顔を変えるのだ。
「収穫はあったかい」アルヴィンが聞いた。
ナディールが——羊皮紙をアルヴィンに押しつけた。
「ああ」低い声。「これで、採掘を進められる」
アルヴィンが受け取る。ヴェルダ観測の記録だ。
「まずはセルヴィアの問題を片付けよう」
ナディールが歩き始める。
アルヴィンは、その背中を見た。
化けやがったな。
心の中で思う。
これも——魔法かねぇ。




