表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
29/100

第29話 父の書斎


 カラカス地方。蒸留所。修復が終わった石壁に——冬の光が当たっていた。


 ナディールの馬車が止まった。


 扉の前に——アルヴィンと木こりが待ち構えていた。


 馬車の扉が開く。ナディールが降りてくる。


 木こりが——膝をついた。逞しい手が地面につく。


「顔を上げてくれ」ナディールが言った。「父が——世話になった」


 木こりが顔を上げた。真正面から——ナディールを見る。そのまましばらく見続ける。


「フリードリヒ様は……」木こりがゆっくりと話し始めた。「分け隔てのない——方でした。近くに住む者が——差入れをすると、喜んでくださって」


 ナディールは黙って聞いている。


「いつも」木こりが続ける。「熱心に——そして楽しそうに、研究をされていた。子供たちが——胸を張って生きられる国にすると、いつもおっしゃっていました」


 風が吹いた。冬の、冷たい風。


「それが——あの夜」木こりの声が少し低くなった。「突然——お出でになり、そして——天井を突き破って、天にも届くような——光が」


 木こりが蒸留所の屋根を見上げた。今も——天井の穴が、残っている。


「その後、王宮に戻られて——ほどなく。お亡くなりになったとお聞きしております」


  ナディールは——何も言わなかった。ただ、蒸留所の壁を見ていた。


「お連れしたい所が——あります」木こりが立ち上がった。


 ◇


 蒸留所の中を三人が進む。石の廊下。銅の蒸留窯——今では磨き直されて、光っている。


 研究室へ入った。小さな蒸留窯がある。壁は塗り直されて——リーナが染みを消した跡は、もう分からない。


 木こりが壁際の本棚の前に立った。本棚を——押す。ぎぃ、と音がした。


 本棚の後ろに——小さな階段があった。下へと続いている。


「フリードリヒ様の——書斎です」木こりが言った。「研究結果を——まとめていた部屋です」


 ナディールを見る。


「どうぞ——お一人で。ここは——そういう部屋です」


 ナディールが——頷いた。一歩踏み出す。階段を、降りていく。


 足音が——遠くなる。


 アルヴィンと木こりが残された。二人とも——黙っている。壁を見ている。研究室の小さな窯の上にもヴェルダの絵がある。大きな翼が、羽を広げていた。


 時間が、流れた。


 ◇


 半地下の部屋。横長のスリット窓から——冬の光が差し込んでいる。細い、静かな光だ。


 ナディールは——立ち尽くしていた。


 綴られた羊皮紙の束。小さなベッド。夜遅くまで研究に明け暮れて——ここに眠り込んだのだろう。


 机の前に椅子がある。ナディールは——ゆっくりと、腰かけた。父の椅子に。


 机の上の束を手に取る。最初に目に入るのは——蒸留の技術記録だ。几帳面な数字と図。丁寧な、字だ。


 この字は見たことがある。子供の頃に——文字の書き方を教えてくれた。あの時の字だ。


 次の束。魔法の記録。守護魔法の効果。治癒魔法の効果。細かな観察と——失敗の記録。


 次。ヴェルダ観測。几帳面に記された日付、季節、鳴き声の方角。十年以上にわたる——証言の記録だ。


 アルカーナムと書かれた束を取り出す。二つに分かれている。効果の分析と——地図だ。


 地図を広げる。カラカス地方の精密な地図。採取した土の分析結果が——書き込まれている。一点一点。丁寧に。


 埋蔵地に——近づいていた。もう少しで——辿り着けていた。


 ナディールは地図を机に置いた。効果の束を手に取る。パラパラと——めくる。


 『魔導物質アルカーナム:全ての魔法反応を倍増させる究極の触媒』


 『その特徴は、魔法の副作用を打ち消し、主作用だけを倍増させる』


 めくる。


 『使用されたアルカーナムは失われる』


 『何の残滓も残さず——まさにこの世から消滅する』


 めくる。守護魔法、治癒魔法、炎の魔法——様々な魔法への作用が書かれている。


 父は——この部屋で。夜ごと。一人で——考えていたのだ。


 『アルカーナムは高温で抽出できる』


 『蒸留することで——純粋な結晶になる』


 そのために——蒸留所を建てた。


 最後のページ。ナディールは——めくる手を、止めた。


 『アルカーナムの蓄えがあれば』


 『軍事的、経済的、宗教的——あらゆる弾圧を跳ね返せる』


 一行。


 『為政者には、限られたアルカーナムを——何に使うかが委ねられる』


 一行。


 『神になってはならない。悪魔になってもならない』


 『人として——最善の道を』


 そして——最後の一行。


 小さな字で。


 『間に合わなかった』


 そこで——ノートは終わっていた。


 ナディールは、羊皮紙を見つめた。動かない。


 父が——ここにいた。そう思った。


 ◇


 階段を——上ってくる足音。


 アルヴィンが欠伸をおさえようと上げた手が途中で止まった。


 ナディールが立っていた。


 顔が——違う。これまでと。何かが——変わっている。言葉にならない。でも——分かる。覚悟を背負うことが、人の顔を変えるのだ。


「収穫はあったかい」アルヴィンが聞いた。


 ナディールが——羊皮紙をアルヴィンに押しつけた。


「ああ」低い声。「これで、採掘を進められる」


 アルヴィンが受け取る。ヴェルダ観測の記録だ。


「まずはセルヴィアの問題を片付けよう」


 ナディールが歩き始める。


 アルヴィンは、その背中を見た。


 化けやがったな。


 心の中で思う。


 これも——魔法かねぇ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ