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第3話 金色の麦

 酒場『金色の麦』は、夕暮れ時の一番賑わう時間だった。


 木造の内装に、天井から吊るされた鉄製のシャンデリアの蝋燭が揺れている。テーブルには客がぎっしりと詰まり、男たちがジョッキをあおっては大声で笑い、互いの肩をバンバンと叩き合っている。


「今日も良い麦が採れた!」「乾杯だ!」


 ガシャン、とジョッキが鳴る。その間を、エプロン姿の若い女性が忙しそうに動き回っていた。両手にジョッキを三つずつ持って、「はい、お待ち!」と笑顔でテーブルを回る。よく見ると、エプロンの端に小さな刺繍がある。魔法使いの印だ。生活の中で役立つささやかな魔法を使える者がいて、こうして酒場で働いていることもあるらしい。


 奥の広間ではフィドルの音楽に合わせて男女が踊り、足を踏み鳴らしている。笑い声、歓声。平和な宴の風景だった。


 カウンター近くのテーブルに、一人の男が座っていた。


 ナディール・フォン・エーレンベルク。三十代前半。高級そうだが少し古い貴族の服を着ている。襟が擦り切れているのに、それでも品があった。整えられた髪、整った顔立ち。この酒場の客の中では明らかに浮いているが、誰も気にしていない。彼がここに来るのは珍しいことではないからだ。


 ナディールは頬杖をつきながら、一人でワインを飲んでいた。赤い液体がグラスの中で揺れている。既に酔いが回って、とろんとした目をしている。優しい目だ。喧騒を静かに眺めている。笑い合う農民たち、踊る若者たち、歌う子供たち。その光景を見つめながら小さく微笑んでいたが——目は笑っていなかった。どこか悲しげだ。


 その時、酒場の扉がキィと音を立てて開いた。


 ナディールは何気なくそちらを見て——目が吸い寄せられた。


 入ってきたのは若い男だった。二十歳そこそこだろうか。童顔。だが、何か違う。


 泥と血にまみれたボロボロの服。普通なら酒場に入れてもらえないような格好だ。なのに——立ち姿が堂々としている。まるで高級な服を着ているかのような佇まい。童顔なのにどこか陰があり、若いのにどこか老獪さがある。


「……何者だ?」


 ナディールは呟いた。


 その若い男が酒場の中を見渡している。まるで獲物を探すかのような目だ。そのままカウンターに向かって歩き始め、ナディールのテーブルの前を横切った。


 その瞬間——二人の目が合った。


 ナディールは息を呑んだ。修羅場を見てきた目だ。二十歳そこそこなのに、まるで何十年も戦場を生き抜いてきたような。


 アルヴィンは何も言わずに通り過ぎ、カウンターに座った。ナディールはその背中を見つめた。


「……面白い」


 ナディールは隣のテーブルの常連客——五十代くらいの農民の男に、小声で話しかけた。


「なあ。あんな若者が、この村にいたかね?」


 男はアルヴィンを見て目を見開いた。


「あ……ありゃあ、雑貨屋ですよ。アルヴィンって若者です。村で一番のお人よしで——」


 そこで眉をひそめた。ボロボロの服。頭の血。


「何があったやら。それに……顔つきが、まるで別人だ」


 雑貨屋。お人よし。だがあの目はお人よしの目ではない。ナディールはグラスのワインを一口含みながら、カウンターのアルヴィンを観察し続けた。


 ◇


 バーテンダーは中年の髭を生やした男で、泥と血にまみれたアルヴィンを疑わしそうに見ていた。


「……兄ちゃん、ずいぶんとひどい格好だな。金はあるのか?」


 アルヴィンはカウンターの上のジョッキを指さした。


「あれをくれ」


 バーテンダーが渋々注いだ白濁したビールを一口飲んで、呟いた。


「原始的なビールか。まさに、飲むパンだな」


「何だって?」


「そうか……ホップが無いんだ」


 阿久津の記憶が自動的に分析している。この世界のビールは中世ヨーロッパ初期のグルート・ビールに近い。ホップによる苦味も防腐効果もない、素朴な穀物酒だ。飲めなくはないが、前世で知っているビールとは別物だった。


「もっと高い酒があるか?」


 バーテンダーが棚から瓶を取り出し、グラスに赤い液体を注いだ。ワインだ。一口飲む。悪くない。だが——。


「もっと高い酒があるか?」


「おい兄ちゃん、先払いだ!」


 バーテンダーが手を出した。アルヴィンは懐から革の袋を取り出し、金貨を一枚、その手に置いた。


 バーテンダーの目の色が変わった。金貨一枚。この店ではは大金だ。


「一番良いのを持ってきてくれ」


「か、かしこまりました! 少々お待ちを!」


 バーテンダーが急いで奥に消えていく。それを待つ間に、アルヴィンはカウンター越しに店内を眺めた。賑やかな酒場の光景。笑い声、音楽、踊る人々。つい数時間前まで路地裏で殴られていた男が、今はカウンターで酒を待っている。前世でもこういう落差には慣れていた。修羅場の後の一杯が一番うまい。


 バーテンダーが戻ってきた。


「お待たせしました。当店で一番良い酒です。ミード、蜂蜜酒でございます」


 瓶を手に取り、封を開けて匂いを嗅いだ。蜂蜜の甘い香り。発酵による複雑さもある。


「……悪くない」


 その時、後ろから声がかかった。


「あんた、店ごと飲み干す気かい?」


 振り向くと、さっきテーブルで一人飲みしていた貴族風の男が立っていた。柔らかい、笑っているような声。グラスを片手に、親しげな目でこちらを見ている。


 アルヴィンは瞬時に観察した。貴族の服だが古い。品はあるが金には困っている。優しい目だが、どこかに陰がある。この男は——何かを抱えている。


「初めて来た店でね。実力を探っている」


「変な物言いだな。酒場は楽しく飲んで息を抜くところじゃないのかい?」


「違いない。嵌められそうになったが、無事に生還したんでね。息を抜いている」


 男が目を丸くした。


「なんだか、物騒だね」


「あんたは?」


 男はグラスを置いて、少し考えてから答えた。


「私かい。これでも貴族の端くれだ。今日も、先祖代々続いた畑を売ってしまった」


 畑を売った。先祖代々の。貴族が。何かおかしい。


「でも、そのおかげで」


 男はグラスを持ち上げた。


「しばらくは、酒が飲める」


 顔は笑っているが、目の光が無い。


 バーテンダーが戻ってくると、男を見てため息をついた。


「ナディールさん。また畑を売っちまったんですか」


「ああ。今月も、な」


「いつまで続くんですかね」


「さあな。畑が無くなるまで、かな」


 ナディール。この男の名前はナディールか。アルヴィンはミードの瓶を手に取り、グラスを二つ持って言った。


「良ければ、一緒に飲みましょう」


 ナディールは少し驚いたようにアルヴィンを見て——それから笑った。


「良いとも」


 ◇


 ナディールのテーブルに移り、向かいの席に座った。グラスにミードを注ぐ。琥珀色の液体から甘い香りが立ち上る。


「畑に」


 ナディールがグラスを掲げた。


「金貸しに」


 アルヴィンもグラスを掲げた。


 カチン、とグラスが触れ合う。


 飲む。甘いが、ただ甘いだけではない。蜂蜜の甘さに発酵の酸味、そしてアルコールの熱。複雑な味わいだ。


「どうだい、この店の実力は?」


「悪くない。原始的な酒だが、発酵も進んでいる」


 ナディールが笑った。


「若いのに、随分と上から目線だな」


「いや、失礼。昨日は金貨四千枚の酒を飲んでたのでね」


 ナディールの手が止まった。


「……何?」


「金貨四千枚。そんな酒を飲んだ」


 ナディールは目を見開き——それから大声で笑い出した。


「ははははっ! でたらめにも、ほどがあるな。そんな酒は、列強の王様だって持っていないよ」


 アルヴィンは何も言わず、グラスを見つめた。琥珀色の液体。四億円のマッカラン。あれは本当に飲んだ。前世で。だがこの世界では誰も信じない。それでいい。


「まあ、いい。君は面白い。久しぶりに、楽しい酒が飲めそうだ」


 ナディールはそう言って、名乗った。ナディール・フォン・エーレンベルク。落ちぶれた貴族だと自嘲気味に笑う。


「君は?」


「アルヴィン。ただの雑貨屋だ」


「雑貨屋が、こんな格好をしているのかい?」


「色々と、あってね」


 それから二人は飲み続けた。ミードの瓶が空になり、もう一本開ける。ワインも追加する。話は尽きなかった。


 気づけば酒場の客は半分ほどに減り、蝋燭が短くなっていた。ナディールの頬は赤く、とろんとした目がさらにとろんとしている。アルヴィンも少し頬が紅潮していたが、目はまだ鋭かった。

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