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第2話 転生詐欺師、暴力から目覚める


衝撃。


 顔面に何かが叩き込まれて、視界が弾けた。次の瞬間には泥水の中にいた。冷たい。臭い。口の中に泥の味が広がっている。


 ここは、どこだ。


 目を開けると、でこぼこの石畳があった。あちこちに腐った水が溜まり、悪臭が立ち込めている。この街並みは中世。いや——これは夢か。


 髪を掴まれた。痛みから逃れるように立ち上がらされる。視界に飛び込んできたのは、大柄な筋肉質の男だった。顔が近い。酒と汗の臭いがする。


「アルヴィン、とぼけるのはやめな。お前がバルトロの保証人になったのは事実だろう」


 アルヴィン? 俺が?


 記憶が流れ込んできた。阿久津の記憶ではない。別の誰かの記憶だ。


 アルヴィン・フェルトナー。この体の元の持ち主。村の雑貨屋で働く善良な青年だった。友人バルトロに頼まれて連帯保証人になった。「絶対に迷惑はかけない」——その言葉を信じて。だがバルトロは消え、今こうして金貸しに詰められている。


 阿久津——いや、アルヴィンはゆっくりと周囲を見渡した。中世の裏道。薄暗い路地に、建物は木と石でできている。空は灰色。屈強な男と、その上司らしき太った男に見下ろされていた。上司の男は指に金の指輪をはめている。金貸しだろう。


 転生か。俺は今、アルヴィンという名前なのか。


 そうだ、あの金貸しはグレゴールというやつだ。


「それはバルトロに頼まれて……」


 アルヴィンの口が勝手に動いた。元のアルヴィンの反応だ。弱々しい、怯えた声。


「そのバルトロが逃げた以上、俺たちは保証人のお前から取り立てるしかないだろう」


 金貸しが冷たく言い、大柄な男が鼻先まで顔を近づけてきた。


「黙ってないで何とか言いやがれ!」


 怒鳴り声と唾。


 その瞬間——アルヴィンの目つきが変わった。


 ◇


「……久しぶりに殴られたもんだが」


 声が低くなった。元のアルヴィンの声ではない。阿久津の声だ。


「脅しのパンチは、大して痛くないね」


 血にまみれたまま、髪をかき上げた。泥と血が混じっているのに、その仕草には妙な色気があった。まるで鏡の前で身だしなみを整えているかのような——ゆっくりとした、艶やかな動作。


「最近は金もあったし、後ろ盾もいたから、俺に暴力をふるおうというやつはいなかった」


 鼻で笑う。目は笑っていない。冷たく、鋭い。


「懐かしいや」


 金貸しのグレゴールが凍りついたのが分かった。アルヴィンの顔は変わっていない。童顔で、まだ二十歳そこそこに見える若い顔だ。だが雰囲気が完全に違う。目の奥に何かが潜んでいる。深い闇。長い経験。そして——危険な知性。


「連帯保証詐欺か」


 阿久津は冷たく言った。


「どうせお前らは、バルトロとグルだろう」


 グレゴールの顔色が変わった。


「……何を根拠に」


「簡単だ」


 阿久津はグレゴールを見据えた。


「バルトロの居場所も聞かないで、どうして俺を追い込む? 普通なら保証人は本来の借主の居場所を知っているはずだろう? それなのに、お前たちは一度も聞かなかった。なぜか?」


 目が細まる。


「最初から、俺から取るつもりだったからだ。バルトロを探すフリすら、しない」


 そして——。


「詐欺の作法が、何にもできていないよ」


 嘲笑うように言った。


「うるせぇ!」


 大柄な男が怯えを隠すように怒鳴り、拳を振り上げた。もう一度殴るつもりだ。


 阿久津は動じなかった。拳が迫る。その瞬間、半身をそらした。最小限の動き。拳が空を切り、風が頬をかすめた。


 次の瞬間、阿久津の手刀が男の喉に叩き込まれた。


 声にならない声を上げて、男がその場に崩れ落ちる。喉を押さえて、呼吸ができない。顔が真っ赤になっていく。


 グレゴールが後ずさった。


「お、お前……何者だ……」


 阿久津は倒れた男を一瞥してから、グレゴールを見た。


「詐欺師だ。お前たちより、遥かに格上の」


 冷たく笑ってから、倒れた男を見下ろした。まだ喉を押さえて苦しんでいる。呼吸は戻りつつあるが、しばらくは動けないだろう。


「さて。こんなデカブツに付け狙われたら、たまらない」


 阿久津は呟いた。そして——目が変わった。冷たさが消え、代わりに現れたのは狂気だった。


「息の根を、止めておくか」


 グレゴールが凍りつくのを横目に、阿久津は石畳に手をかけた。大きな石を引き抜く。人の頭を砕くには十分な大きさだ。それをゆっくりと持ち上げ、倒れた男の頭上に——。


「や、やめろ……!」


 グレゴールが叫ぶ。だが阿久津の手は止まらない。石が高く掲げられ——振り下ろされた。


 グレゴールは目を伏せた。見たくない。


 ゴツ、と鈍い音がした。


 グレゴールの体が震えた。やった。殺した。この男は——。


 だが、悲鳴が聞こえない。血が飛び散る音もしない。恐る恐る目を開けると、石は石畳を打っていた。大柄な男の頭のすぐ横、数センチずれた場所に。気絶したのか動かないが、胸は上下している。生きている。


 阿久津は石を拾い上げ、今度はグレゴールの方に向かってきた。ゆっくりと近づいてくる。石を手の中で弄びながら。


 グレゴールは後ずさったが、背中が壁に当たった。逃げ場がない。阿久津が目の前に立ち、石を突きつけた。


「借用書と、俺から取り上げた金を、出せ」


 グレゴールは激しく頷いた。


「わ、わかった! 全部渡す!」


 震える手で懐を探り、羊皮紙の束と革の袋を差し出した。金貨の音がする。


 阿久津は羊皮紙を確認した。借用書だ。アルヴィン・フェルトナーと書かれている。これがこの体の元の持ち主の名前か。懐にしまい、金貨の袋も受け取った。


「それと」


 石をまだ突きつけたまま言った。


「バルトロに言っておけ。次に俺の目の前に現れたら、殺すと」


「わ、わかった……必ず伝える! 必ず!」


 阿久津が石を下ろすと、グレゴールはホッとしたように息をついた。だがまだ逃げない。少し落ち着いてから、震える声で問うた。


「……一つだけ教えてほしい。国一番のお人よし、というのは——お前の嘘だったのか?」


 阿久津はきょとんとした。


 国一番のお人よし。この体の元の持ち主——アルヴィンのことか。記憶を探ると、確かにアルヴィンは人が良かった。誰かに頼まれると断れない。困っている人を見ると放っておけない。だからバルトロの保証人になった。だからこんな目に遭った。国一番のお人よし——そう呼ばれていたのか。


 だが今、この体を動かしているのは阿久津蓮だ。前世で詐欺師だった男。お人よしとは真逆の存在。


 少し考えてから、阿久津は呟いた。


「……そういうことに、しておこう」


 曖昧な答え。それ以上は言わない。説明する義理もなかった。


 グレゴールは倒れた男を引きずりながら、路地の奥に消えていった。「もう二度と近づかない!」という声が遠ざかっていく。


 ◇


 一人になった路地で、阿久津は自分の手を見た。泥と血にまみれている。服もボロボロだ。高級スーツでもジョン・ロブの靴でもない。粗末な布の服。アストンマーティンもヴィンテージマンションもない。


 マッカランを飲んで意識を失って——気づいたらここにいた。中世の異世界。本当に転生したのか。


 薄暗い路地の先に光が見えた。阿久津は歩き始めた。


 路地を抜けた瞬間——世界が夕焼けに照らされていた。


 思わず立ち止まった。


 オレンジ色の光が世界を染めている。石畳の広場に人々が行き交い、商人が荷車を引き、子供たちが笑いながら走り回り、女性が井戸から水を汲み、老人がベンチに座って談笑している。日常の、平和な風景だ。


 泥と血にまみれた男を、人々が不審そうに見ていた。阿久津は気にしなかった。広場を横切り、石造りの古い塀に手をかけて、外を見下ろした。


 息を呑んだ。


 どこまでも金色の麦畑が広がっていた。地平線まで。夕日に照らされて、麦の穂が黄金色に輝いている。風が吹くと穂が波のように揺れた。金色の波だ。遠くに風車が見える。さらに遠くに森、そして山々。空はオレンジから紫へのグラデーションで、雲が炎のように燃えている。


「……美しい国だ」


 思わずため息が漏れた。


 前世の東京では、窓から見えたのはビルの森だった。コンクリートとガラスと光の、人工的な景色。あれも美しかったが、これは違う。自然の圧倒的な美しさ。人の手が加わっていない、純粋な美だ。


 つい先ほどまで、阿久津は絶望していた。四億円のマッカランを飲みながら、人生の虚しさに打ちのめされていた。俺が作った組織が二十人を殺した。二百人を監禁した。そして恐らく、数えきれない人々を不幸にした。「もし、やり直せるなら」——そう願って、気づいたらここにいた。


 いきなり殴られて泥水に顔を突っ込まれ、連帯保証詐欺に巻き込まれた。だが、前世で培った詐欺師のスキルがこの身を守った。人を見抜く目、詐欺を見破る洞察力、相手を圧倒する心理戦、最低限の護身術。


「……皮肉なもんだ」


 阿久津は呟いた。


「前世で人を騙した技術が、今世では俺を守る」


 夕焼けを見上げた。


「今度は、この技術を、正しく使えってことか」


 塀から離れて広場を歩く。建物は木と石でできていて、窓にはガラスではなく木の格子。屋根は茅葺き、道は石畳。街灯はない。人々の服装は麻か木綿の素朴なもので、靴は革製。だがみんな笑っている。貧しいかもしれないが、幸せそうだ。


 この美しい麦畑。この平和な人々。


「この景色を、守りたいな」


 なぜかそう思った。前世では奪う側だった。今世では守る側になろう。


 そう思いながら歩いていると、木造の二階建ての建物が目に入った。看板が風に揺れている。ジョッキと麦の穂の絵。文字も書かれていた。読める——転生と同時に、この世界の言語も習得したらしい。


『金色の麦』


 酒場の名前だ。中から笑い声が聞こえてくる。


 阿久津は懐に手を入れた。革の袋。金貸しから取り返した金貨がジャラリと音を立てる。


「軍資金も、あるしな」


 笑った。


「この国の酒を、飲んでみるか」


 酒場の扉を押した。キィ、と音を立てて扉が開く。中は賑やかだった。

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