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第1話 プロローグ 四億円の酒

 四億円の酒を開ける日が来るとは、思っていなかった。


 元麻布の閑静な街を、漆黒のアストンマーティンDBSが滑るように走っていた。V12エンジンが奏でる低く濃密な咆哮は、獣が喉の奥で唸る音のようだ。英国の職人が手作業で組み上げたエンジンに、流麗なボディライン。三千万円のこの車体は、単なる移動手段ではない。「速さ」と「美」を極限まで突き詰めた芸術品だった。


 阿久津は、そのステアリングを握りながら携帯を肩に挟んだ。


「ええ、この投資案件は急がれた方が……公開されればBOTを使って情報収集しているような連中が一斉に動き出しますから。ええ、ええ」


 信号が青に変わる。アクセルを踏むと、車体が音もなく加速した。


 阿久津蓮、三十代半ば。若さと落ち着きが同居した佇まいが、独特の色気を醸し出している。


 低層のヴィンテージマンションが見えてきた。一九七〇年代、日本の高度成長期に建てられた名建築だ。経年変化した打ちっぱなしのコンクリート外壁に、モダニズム建築の美学が色褪せずに残っている。わずか五階建て、全八戸。プライバシーを何より重視する富裕層が静かに暮らす場所だ。高層マンションが林立する元麻布でも、この建物は異彩を放っていた。


 DBSが敷地に滑り込む。エンジンを切ると、静寂が戻った。


 阿久津はドアを開けて降り立った。ジョン・ロブのビスポークシューズが石畳を踏む。ロンドンの工房で阿久津の足型を取り、半年かけて作られた一足だ。携帯を切り、サングラスを外して、エントランスへ向かう。


 重厚な木製の扉を押すと、控えめな高級感に満ちた空間が現れた。大理石の床、ウォールナット材の壁、柔らかな間接照明。コンシェルジュデスクの前に立つ五十代の男——元ホテルマンだろうか、洗練された物腰の男が、阿久津を見て静かに頭を下げた。言葉は交わさない。阿久津も目だけで挨拶を返す。余計なことは聞かない、余計なことは言わない。だからこそ、このマンションは選ばれている。


 周囲から見れば、阿久津蓮は若き成功者だった。三十代半ばでアストンマーティンを乗り回し、元麻布のヴィンテージマンションに住む。IT投資家か、資産運用のプロフェッショナル。そう思われている。


 だが——それは表の顔だった。


 阿久津蓮の真の職業は、詐欺師。


 優れた頭脳で人を見抜き、綿密な計画で罠を仕掛け、ターゲットから大金を奪い取る。ただし、欲まみれの金持ちだけを標的にする。弱者は狙わない。それが彼のルールだった。


 ◇


 最上階の自室は、アンティーク調の家具が並ぶ静謐な空間だ。十九世紀のフランス製チェスト、ヴィクトリア朝のソファ、ペルシャ絨毯。だが机の上だけが異質だった。複数のモニターが青白い光を放ち、最新のトレーディングシステムがリアルタイムで世界中の市場を監視している。


 椅子に腰を下ろし、マウスを手に取った。経済、為替、株価、仮想通貨、M&A——指がニュースを滑らせていく。


 その時。一つの見出しが、阿久津の目を捉えた。


『ラオス国境で大規模詐欺グループのアジトを検挙 首謀者は日本人』


 目の色が変わった。クリックする。


『ラオス国境で200人が監禁され遠隔詐欺を強制』『ラオス警察が一斉検挙』『首謀者と思われる日本人3人を拘束』『高度な暗号通信システムを使用』


 そして、写真。手錠をかけられた三人の男。ラッパーのような派手な服装、タトゥー、ピアス。


「……田中。宮内。山本」


 声が漏れた。


 脳裏にフラッシュバックが走る。金の鎖を揺らしながらの軽い口調——「マジ天才っしょ、このシステム」「カモ、釣り放題っすわ」「"弱いやつはカモらない"ってマジルール? 俺たち理想のはんざいしゃ!」。笑っていない目。


 さらに記事を読み進める。


『敷地内から20人以上の遺体を発見』『逃亡を試みた被害者を殺害か』『一部は日本人とみられる』


 阿久津の手が止まった。


 二十人が殺された。あいつらが。いや——俺が作ったシステムで。


 引き出しから黒い箱を取り出した。中にあるのはアンブレイカブルフォン。軍事レベルの暗号化通信を搭載した特殊な携帯電話だ。物理的にも破壊は難しく、通信は完全に暗号化されている。緊急時の使い捨てだが百万はする。犯罪者が使う電話だ。


 登録されている連絡先は三つだけ。その一つを選んだ。


 コール音が三度鳴って、低い声が応えた。


「……久しぶりだな」


 阪本。阿久津の最初の相棒だった男。だが互いに名前は呼ばない。


「例の件か?」


 阿久津は答えず、問う。


「何だ、あれは一体。あいつらは引退したんじゃなかったのか?」


「さぁね。俺には関わりないことだ」


「関わりない?」


 阿久津の声が荒れた。


「俺たちは欲まみれの金持ちしかターゲットにしないと決めていた!」


 沈黙。一呼吸の後、阪本が言った。


「……そう信じてたのは、あんただけかもな。悲しいことに」


 阿久津の息が止まった。


 電話の向こうでキーボードを叩く音がする。


「暗号通信のプロトコル。俺たちが開発したやつだ。ニュースに『高度な暗号通信』とあるだろう? 俺たちのシステムをそのまま使ってたに違いない」


 阿久津は黙っている。


「名前が出ると厄介だ。俺は暫く身を隠す」


「……おい」


「お互い、連絡は控えよう」


「待て——」


「あんた……」


 電話の声が低くなった。


「あんただって、想像はついただろう」


 阿久津の声が低く唸った。


「お前……知っていたんだな」


 ツー、ツー、ツー。電話が切れた。


 ◇


 阿久津は電話を机に置いた。


 静寂の中で、モニターの光だけが部屋を照らしている。画面にはまだニュースが表示されていた。『20人以上の遺体』。


 立ち上がって、部屋の奥へ向かった。ガラスケースの中に、琥珀色の液体が入ったボトルがある。


 マッカラン一九二六年。


 手に入れたのは十年前、価格は二千万円だった。その後のウィスキー人気で、今なら四億円の価値がある。中身は同じ酒なのに、世界が勝手にこの液体に「狂気」を上乗せした。


「いつか、特別な日に開けよう」


 そう思っていた。成功の証として。人生の頂点で。


 阿久津はゆっくりとケースを開け、ボトルを手に取った。


「……今日が、その日か」


 低く呟いた。二十人が死んだ日。俺が作った組織が人を殺した日。確かに——特別な日だ。


 グラスに注ぐ。美しい琥珀色が、光を透かすと百年の時を閉じ込めているように見えた。


 口に含んだ。暴力的な芳香が口腔を満たす。オーク樽、ドライフルーツ、スパイス、そして——煙。ピートの香り。スコットランドの大地。


 一九二六年に蒸留されたこの液体は、樽の中で眠り続けた。世界恐慌、第二次世界大戦、冷戦、バブル崩壊、インターネット革命。戦争も平和も、繁栄も崩壊も、人の営みの愚かさを、ずっと傍らで見てきた液体。


「だが……俺が手に入れたかったのは、これなのか……?」


 もう一口飲んだ瞬間——脳裏にイメージが走った。フラッシュバック。いや、これは阿久津の記憶ではない。


 一九二六年、スコットランドの蒸留所。職人が樽を並べている。一九三九年、ロンドン空襲。爆撃の轟音の中で、樽は静かに眠り続ける。一九四五年、終戦。一九八九年、ベルリンの壁崩壊。二〇〇一年、同時多発テロ。そして二〇一五年、阿久津がこのボトルを手に入れる。


 圧倒的な情報量。百年分の歴史が一気に流れ込んでくる。


「俺は……俺は、何がしたかったんだ……」


 手が滑った。グラスが床に落ちて割れ、四億円の酒がペルシャ絨毯に染み込んでいく。


「何の……意味も……」


 阿久津はソファに倒れ込んだ。意識が遠のいていく。酔いか、絶望か、それとも百年分の歴史の重みか。


「もし……やり直せるなら……」


 かすかな声。視界がぼやけていく中で、モニターのニュースの文字だけが残っている。


『20人以上の遺体』


「償えるか……俺に……」


 眼の前が暗くなる。


 そして——目を開けると、そこは異世界だった。

登場人物一覧


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 エアル王国

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◆ アルヴィン・フェルトナー(主人公)

 前世は現代日本の詐欺師・阿久津蓮。巨大組織を率いたトップだったが、

 部下が引き起こした事件で20人が死んだことを知り、絶望して転生した。

 20歳前後の童顔だが、目の奥に深い闘志と危険な知性が宿る。


◆ ナディール(ルートヴィヒ・フォン・エーレンベルク)

 エアル王国の宰相。30代前半。身なりは良いが襟が擦り切れている。

 この国で一番忙しく、一番孤独な男。

 酒場では「ナディール(一番低い地点)」という偽名を使い、アルヴィンと出会った。

 亡き父・先王フリードリヒの遺志を守り続けている。


◆ リーナ・ヴァイス・フローラ

 20歳前後。茶色の髪を後ろで束ねた、アルカディア魔法学院の卒業生。

 「染み抜きしかできない」と自分を役立たずだと思っていたが、

 アルヴィンのもとで秘書として成長する。

 染み抜きの魔法は変わっていない。変わったのは、使い方だけ。


◆ エリザベート王女

 エアル王国の王女。20歳以上。金色の髪と青い瞳。

 天然だが「天性のものを持っている」(ナディール談)。

 愛犬マックスを溺愛。酒が異常に強い。

 無自覚の言動が最高の外交結果を生む。


◆ フリードリヒ・フォン・エーレンベルク(先王・故人)

 ナディールの父。エアルを救う計画を一人で進めていた。

 遺した言葉:「神になってはならない。悪魔になってもならない」 


◆ フェルディナント

 30代。眼鏡。財務担当官。常に帳簿を持ち歩く。

 「正しいことを正しくやる」が信条。数字に正直で誠実。

 理解した瞬間に目が輝く。


◆ エルネスト・ソラリス

 30代後半。守護魔法ウィス・クストーディアの使い手。

 「困っている人を見ると断れない」。アルカディア公国出身。

 魔法を使い込んだ大きな手が特徴。


◆ カッシオ

 元兵士・用心棒。エアル国立銀行の警備担当。

 腹痛を起こす魔法を持つ。生真面目。

 「えらいところに就職してしまった」というのが口癖。


◆ ルカ・メッツァーニ

 外見15歳、実年齢25歳。老化魔法(対象の時間を進める)の使い手。

 等価交換で術者が若返るため、外見が15歳のまま。

 淡々としているが、目の奥に25年分の時間が宿っている。


◆ ヴィルヘルム・フォン・ブラント(軍務卿)

 50代。立派なカイゼル髭。背筋の伸びた軍人。

 兵站と部隊運用に明るい。部下の名前と家族構成を覚えている。


◆ クラウス・ホーファー(農民)

 中年。名前の意味は「自由な男」。

 アルヴィンへの恩義から、コンラートら生存者を農場に匿った。


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 自由都市リミニ

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◆ ロレンツォ・ディ・ヴァザーリ

 60代。十人委員会議長。

 裏社会での異名は「毒蜘蛛アラクネ」。

 哲学は「軍事は経済の下僕」「世の中、金で買えないものはない」。

 対象を即座に分類して対処法を見つける「分類能力」が武器。

 片眼鏡を拭く仕草が、動揺のサイン。


◆ マルティーノ

 50〜60代。ロレンツォの執事・商会の総書記長。勤続30年。

 外見からは読み取れない二重性を持つ。


◆ ファブリツィオ

 遍歴騎士。ロレンツォの私兵。寡黙で、必要なことだけを話す。

 剣士としての誇りを持つ男。


◆ アゴスティーノ(十人委員会)

 60代。軍事強硬派。

 「経済で支配するより、一度恐怖を見せた方が早い」。


◆ バルトロメオ(十人委員会)

 50代。純粋な数字の人。帳簿と利益率しか見えていない。


◆ フィリッポ(十人委員会)

 40代。三人の中で最も若い。

 ロレンツォへの忠誠心は恩義と恐怖から。


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 聖シュタイン帝国

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◆ コンラート・フォン・アイゼン

 40代。異名「鉄剣聖コンラート」。正式な決闘21戦無敗。

 騎士道を体現する誠実な男。

 宴席の余興として剣を振らされる虚しさを抱えている。


◆ ヴォルフ・シュトラウス

 20代前半。コンラート麾下の若い騎士。

 「若いわりには呑み込みが早い」(アルヴィン)。


◆ マルタ・フォン・ヴィンター

 19歳。帝国の小貴族の娘。炎の魔法(攻撃型)の使い手。

 父は「ヴィンター家の誇りだ」と入隊を喜んだ。

 戦争で深い傷を負い、力の意味を問い直す。


◆ ハインリヒ(皇太子)

 30〜40代。父・カール皇帝とは対照的に冷静。

 コンラートを信頼する。


◆ カール皇帝

 70代。軍事力の誇示を何より重んじる老皇帝。


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 アルカディア公国

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◆ アリアドネ・テミス

 30代前後。魔法評議会議長。赤いコートが特徴。

 他の魔法使いの魔法を無力化する力を持つ。

 


◆ パラケルスス教授

 アルカディア魔法学院の教授。真っ白なコートが特徴。

 リーナの恩師。「染みしか消せない魔法でも使い方次第」と教えた。


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 法王国セルヴィア

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◆ インノケンティウス5世(法王)

 70代。在位20年以上。

 「軍事も経済も魔法も、信仰の前には無力」。


◆ セバスティアヌス枢機卿

 70代前後。穏やかな目をした老人。

 血なまぐさいイベントが苦手。

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