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第26話 魔導物質


 廊下から足音が聞こえた。階段を上がってくる。


 扉が開いた。


「すまない、呼び出しておいて遅くなった」ナディールが入ってきた。疲れた顔。でも——いつものように背筋は伸びている。


「この国で一番忙しい宰相様だ」アルヴィンが言った。「謝る必要はないよ」


 ナディールが——リーナの顔を見た。赤い目。涙の跡。


「……アルヴィンがリーナを泣かしている」


「そういうのじゃ——ありません」リーナが首を振る。


「ナディール様」リーナがナディールを見た。「アルヴィンさんから——転生の話を聞きました」


 ナディールがはっとした。


「そうか」低い声。「そうか——」


 ◇


「数カ月前に」リーナが続ける。「阿久津さんの魂が、この世界に——天上からの光となって、アルヴィンさんの体に注ぎ込まれた。これは——魔法です」


 ナディールが椅子を引いた。腰を下ろす。しばらく黙っていた。


「魔法」


「一体——誰の魔法だ」


「それは——分かりません。ただ」リーナが手を見た。「アルヴィンさんの体には——大きな魔法が使われた残り香があります。そしてあの蒸留所にも——同じ残り香がある。昔、あの場所で——大きな魔法が使われたに違いありません」


 ナディールが——静かに目を閉じた。


「私も——話しておかなければならないことがある」


 重い、一言だった。


「あの蒸留所を作ったのは——恐らく、先王フリードリヒ・フォン・エーレンベルク。私の——父だ」


 ◇


 沈黙。


「蒸留窯の紋章は——エーレンベルク家のもの。秘密裏に、あれだけ大規模な設備を作れるのは——王家くらいだろう」


「研究に没頭していたという——あの父親か」アルヴィンが言った。


「ああ」


「先王も——蒸留酒の産業化を考えていたのか」


 ナディールが首を横に振った。


「そこなんだ。違和感があるのは。父と——酒、というのが結びつかない」


「ナディール様」リーナが口を開いた。「大きな蒸留窯と別に——実験室がありました。以前そこで——粉のようなものが残っていて、一粒の粉を指に取った瞬間——魔法が暴発したんです」


 アルヴィンが考え込んだ。


「魔法は等価交換——なのに——その均衡を崩す。レバレッジが——あるのか」


「そちらが本命だろうな」


 ナディールの顔が急に険しくなった。


「そういうことか!」


 アルヴィンが顔を上げた。ナディールと、目が合う。


「法王国が要求する——カラカス地方の聖域化。自由都市が画策する——土地の収奪。アルカディアが求める——魔導資源の独占契約。全部が——同じところをめざしていたんだ」


 三人は、しばらく黙っていた。ランプの灯りが揺れる。窓の外——エアルの夜が、静かに更けていく。


 ◇


 エアル王宮。冬の夜。石畳の廊下に松明の明かりが揺れている。フェルディナントが足早に歩いて、その後ろをアルヴィンが続く。厚い外套を着込んでいた。


「王宮まで来ないといけない話なのかい」白い息が流れていく。「カラカスの調査に、セルヴィア対策に——大わらわなんだが」


「はい」フェルディナントが振り向かずに答えた。「これ以上秘密な話は——ありません」


 ◇


 ナディールの執務室。書類の山。羊皮紙があちこちに積まれている。ナディールが机の前に座っていた。


「忙しいところすまないな。アルヴィンに説明してくれ」


 フェルディナントが帳簿を取り出した。分厚い帳簿だ。アルヴィンの前に置く。


「銀行の帳簿は——アルヴィン様に教えていただいた複式簿記でつけています。ですが国の帳簿は——単式のままです。銀行業務にひと段落ついたので、国庫の帳簿を複式に直し始めたところ——」


 アルヴィンが帳簿をめくった。ぱら。ぱら。目が動く。


「この工事の支出に——対応する資産がどこにもないな」


 フェルディナントが別の頁を指さす。


「これも同じです。金貨三千枚の橋の補修費ですが——橋の記録がありません。橋が補修されたなら——橋の価値が上がるはずだ。右に支出、左に資産の増加。でも——左ばかりに、空白があります」


 ナディールが眉をひそめた。


「横領が行われているということか」


「よくある話だが」アルヴィンがため息をついた。「一体——誰が」


「複式簿記なら——不正は一目瞭然だ。しかし、いくら単式簿記でも——全体を見ている者に、分からないはずがない」


「はい」フェルディナントが頷く。「私も——そうとしか思えません」


 ナディールが静かに言った。


「全体を見ている者——財務卿か?」


 フェルディナントが——頷いた。


 ◇


「今夜にも——捕縛してやる」ナディールが立ち上がった。


「まぁ——待て」アルヴィンが手を上げた。「法王国と自由都市が——カラカスの秘密を知っていた。王宮にスパイがいるわけだが、国庫から横領して私財を増やす男が——外国に情報を売っていても不思議じゃない。だが——逮捕すれば——敵への宣戦布告になる」


 沈黙。


「泳がせよう」アルヴィンが言った。「偽の情報でスパイをあぶりだす」


 目が——変わっていた。暗い、阿久津の目。好戦的な、詐欺師の目。

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