第25話 双子芋が好きな男はどこへ
冬の朝。エアル国立銀行の石造りの建物に、朝の光が当たっている。
扉の前にカッシオが立っていた。背筋を伸ばして、腕を組んで、守衛として。
建物の中ではフェルディナントが帳簿を開いている。エルネストが通帳に魔法をかけている。開店前の、静かな時間だ。
◇
「カッシオくん」
フェルディナントがカウンター越しに声をかけた。
「少し、いいかね」
カッシオが振り向く。
「はい」
「ちょっと困ったことがあって」フェルディナントが眼鏡を押さえた。「あのお婆さんなんだが」
入り口近くの椅子に、小柄な老女が座っていた。白い髪。小さな体。膝の上で、両手を揃えている。
「八千リルも引き出したいとおっしゃっていてね」
「それは……」カッシオが眉をひそめた。八千リル——庶民の二ヶ月分の収入だ。
「現金で持ち歩くのは、何かと心配でしょう」フェルディナントが続ける。「家まで、一緒に送ってあげてもらえないか」
カッシオが頷いた。
「喜んで」
◇
石畳の道を、お婆さんの歩みに合わせてカッシオが歩く。手には、お婆さんの荷物。銀貨の入った、重い袋だ。
「一緒に来てくれてありがとうね」
「いえいえ」カッシオが首を振る。「お安い御用ですよ」
「でも——」少し間があった。「どうしてそんなに、現金を」
お婆さんがため息をついた。
「リミニに働きに出ている息子が、病気らしくて。治療費を運んでもらおうと思って」
「それは、大変でしたね」
「息子のお友達が、知らせに来てくれたのよ」
カッシオの顔が、少し引きつった。
◇
家に着いた。石造りの小さな家。扉の前に——若い男が立っていた。愛想の良い顔。
「無事にお金をおろせましたか」男が近寄る。「それじゃ急いで息子さんのところへ届けないと。私が——」
「待ちなさい」
カッシオの声。穏やかな声。だが——低く重い。
「息子さんのお名前は?」
「……」
「リミニのどこに住んでいますか」
「……」
沈黙。男の目が、宙を泳いだ。次の瞬間——銀貨の袋に、手が伸びた。
だが男は、そのまま崩れ落ちた。石畳の上に。両手で胸を押さえて、うずくまっている。
お婆さんが目を丸くした。
「ま、まぁ——」
カッシオが男を見下ろした。
「肺が弱いのでしょう…。治りますよ」静かな声。「十分もすれば」
◇
雑貨屋に朝の光が差し込んでいる。アルヴィンとリーナが並んで立ち、その前にヴィルヘルムが立っていた。三十代のがっしりした男で、今月から雇った店番だ。憎めない顔をしている。
「これが帳簿だ」アルヴィンが帳簿を開いた。「売った商品と値段を、毎日ここに書いていく。左に品物の名前。右に金額」
ヴィルヘルムが覗き込んだ。
「……は、はい。足し算が苦手でして」困り顔で言う。
アルヴィンがため息をついた。
「リーナ、頼む」
「はい」リーナが前に出た。「一緒に練習しましょう」
そこへ——
「アルヴィン!」
扉が勢いよく開いた。大きな籠を背負った若者が立っていた。息を切らして、顔を赤くして、目がきらきらしている。
「いやぁ、久しぶりだ! 元気そうじゃないか!」
若者が店に入ってくる。
アルヴィン若者の顔を見つめる。少し間があった。
「ああ。ハンス、久し振り」
ハンスが嬉しそうに頷く。
「両親の店を継いだとは聞いていたけどな」
ハンスが店の中を見渡した。商品の並んだ棚、整然とした帳簿、リーナとヴィルヘルム。
「店員まで雇ってるなんて。素晴らしいよ!」
「ぼちぼちな」アルヴィンが答えた。「ハンスも元気そうだな」
「田舎で土いじりだからな」ハンスが籠を下ろした。どすん、と重い音。「でも見てくれ——大収穫だ!」
籠の中に大根、人参、葉物。そして——丸くてくびれた形の芋がいくつも。
「じゃーん」ハンスが芋を持ち上げた。「双子芋だぞ! 最近じゃ、あまり見ないだろう」
得意そうな顔。
アルヴィンは双子芋を見た。
「わざわざありがとう」
それだけ言って——帳簿に目を戻した。
ハンスの顔が少し曇った。でも、すぐに笑顔に戻す。
「まあ、積もる話もあるし。少し邪魔してもいいか」
「ああ、ゆっくりしていけ」
◇
リーナは店の外に出た。石段に腰を下ろし、頬杖をついて通りを眺める。
頭に浮かぶのは——アルカディアの路地。あの修道衣の男。
「裁判で、自らの潔白を晴らす必要があるのでは」
男はそう言った。裁判。
リーナは唇を噛んだ。異端審問。
人の為になると思って、ずっとやってきた。農夫の土地を守った。銀行の通帳を考えた。契約書の改ざんだって——それが正しいことだと、思っていた。
でも——それが別の誰かを怒らせる。
考えが、ぐるぐる回る。同じところを。
◇
扉が開いた。ハンスが出てきた。背中が丸くなっている。明らかに意気消沈していた。
「もうお帰りですか」リーナが尋ねる。
「ああ」ハンスが頭を掻いた。「せっかく出てきたんだが。何か、おかしい」
「おかしい?」リーナが顔を上げた。
「アルヴィンは、あんな奴じゃなかった」ハンスが遠くを見る。「あいつの笑顔は——苦笑じゃないんだ。もっとこう、素直な笑いなんだ。あんなに大好きだった双子芋を見ても、はしゃぎもしない」
少し間があって。
「あんた」ハンスがリーナを見た。「いつからアルヴィンは、あんなになった?」
◇
リーナの脳裏に——あの夜の記憶が過った。
酒場。夜遅い時間。ボロボロの服。泥と血にまみれたまま——堂々と立っていた、男の後ろ姿。何度もワインを運んだ。
あの夜が——始まりだった。
「俺には」ハンスが呟いた。「顔はアルヴィンでも——中身は別人に思える」
しばらく、二人は黙っていた。石畳に風が吹く。麦わらが転がっていく。
「また来るよ」ハンスが言った。「アルヴィンによろしく」
それだけ言って——ハンスは重い籠を背負い直して、歩いていった。
リーナはその背中を見送った。
「中身は別人」
夕暮れが近い。金色だった麦畑は収穫も終わり、少し物悲しい。
◇
夜の『金色の麦』二階。いつもの部屋。テーブルが一つ、椅子が向かい合わせに三脚ずつ。
「ナディールはまだ来ていないか」と言いながらアルヴィンとリーナが部屋に入ってきた。扉が閉まった。
「リーナに」アルヴィンが言った。「話しておかなければならないことがあるんだ」
リーナが——びくり、と震えた。
「今日、」アルヴィンはテーブルを見たまま続ける。「ハンスという幼馴染が訪ねてきただろう。話は出来た。でも、ずっと言われたよ。アルヴィンらしくない。昔のアルヴィンはそんなじゃなかった、と」
「リーナには——説明しておく必要がある」
◇
沈黙。
それを聞いた瞬間——リーナの目から、何かが溢れそうになった。
「それは、」声が震える。「私も——感じていました」
「私は、買い出しで昔のアルヴィンさんを見たことがあります。村一番のお人よしと呼ばれていました。それまでアルヴィンさんは、酒場に来ることはなかった」
「それが——あの夜」
リーナが手を握りしめた。
「ボロボロになって金色の麦に現れて、ナディール様と朝まで飲み明かしていた」
しばらく間があって。
「私からも——お話することがあります」リーナが続けた。「一緒にアルカディアに行ったとき、パラケルスス教授に言われました。あなたには——魔法の残り香がある、と」
◇
アルヴィンが顔を上げた。リーナを、見た。
「あなたに大きな魔法がかけられたのは——確かです。でも、私には分からなかった。それが……人の性格を反対にしてしまう魔法なのか、人の顔を奪う魔法なのか、人の体を——丸ごと乗っ取ってしまう魔法なのか」
「でも」リーナの声が少し変わった。「あなたは悪い金貸しを憎んで、たくさんの人を助けている。私を——助けてくれて。認めてくれて。任せてくれた」
間があった。
「私はずっと——聞けませんでした」
リーナがアルヴィンを見た。まっすぐに。
「あなたは——誰ですか」
ぽろぽろと——涙が落ちた。頬を伝っていく。
部屋が静まり返った。ランプの灯りが揺れている。
◇
アルヴィンは、しばらく黙っていた。
「ずっと——話せなくてすまなかった」静かな声。「あまりに荒唐無稽な話でね」
「俺は」アルヴィンが言った。「別の世界から来た。気が付くと——このアルヴィンの体になっていた」
「別の——世界?」
「本当の名前は、阿久津、アクツという」
リーナは動かなかった。ただ——聞いている。
「百年後の自由都市のような——経済の発達した世界で、俺は詐欺師だった。金持ちから、金をだまし取った。犯罪者だったが——貧乏人や弱者からは奪わない。それが、自慢だった」
「でも」アルヴィンの声が低くなった。「気がつけば——俺の組織は、俺の知らないところで、弱者を傷つけ、多くの命を奪っていた」
「人生に絶望した。やり直しを——願っていたら、この世界に来ていた」
◇
しばらく二人とも黙り込んでいた。
リーナが——はっと気付く。
「数カ月前に——天から、魔法の光が差した。そうパラケルスス教授が言っていました。天から地へ——静かな一条の光が」
「荒唐無稽じゃありません」リーナが涙を拭いた。「私は——信じます。転生の魔法。聞いたことがありませんが——魔法です」
少し間があった。
「でも——」
「元々のアルヴィンの意識は、どこに行ったのでしょう」
アルヴィンが窓の外を見た。
「それは俺も——ずっと考えていた。俺がこの体に宿った時、アルヴィンは詐欺に騙されて、全てを奪い取られようとしていた。金も、店も、そして恐らく——命も」
リーナがゆっくりと頷いた。
「潰える命に——強い意志が宿る。魔法の基礎に、そういう原理があります。でも——それが別の世界から来た意志だなんて、そんな魔法、私は聞いたこともありません」
少し間があった。
「でも」リーナが静かに言った。「この世の誰かが——解明していたのですね」
ランプの灯りが揺れた。
「ふと——思ったのですが」リーナがアルヴィンを見る。「これからは、阿久津さんとお呼びすれば良いですか」
アルヴィンが——わずかに笑った。
「アルヴィンで構わない。この世界での——俺の名前だ」




