第23話 黒魔法使い
廊下をリーナが一人で歩いている。うかない顔だ。
「まさか、三人とも、とは」呟く。「こうしている間もエルネストさんは助手を待って、忙しく働いているのに」
石畳が靴の下で鳴る。
「本当に、私が断って良かったのでしょうか。多少相性が悪くてもいないよりは良いのかも」
出口の扉を押して、光の中へ出た。
◇
坂道を下っていった。リーナが路地を曲がった瞬間——前方に人がいた。背の低い男。あの修道衣だ。
今度は——向こうも気づいていた。目が合った。男が笑った。何も言わずに路地の奥へ、消えていく。
リーナはその場に立ち止まった。
◇
パラケルスス教授の執務室でリーナが報告をした。
「そうですか」
「せっかくご紹介いただいたのに、申し訳ありません」
「いやいや」教授が首を横に振る。「君の判断が正しいのでしょう。エアルまで行ってから合わなかった、よりずっと良い」
「でも責任を感じてしまって」
「もっと自信を持ちなさい」教授がまっすぐにリーナを見た。「あなたは魔法使いとして、きちんと成長を続けていますよ」
リーナが顔を上げる。
「そういえば——先生のおっしゃっていた、魔法の残り香。少し、分かったかもしれません」
「ほう」
「ある場所で、感じたんです。古い、大きな魔法の気配を」
「そうですか」教授は何か考えるような目をした。しかしそれ以上は言わなかった。
「——別の話なのですが」リーナが続ける。「街で、同じ聖職者に二度出会いました」
教授の表情が少し変わった。
「セルヴィアの者でしょう」即座に言う。「アルカディアでも最近よく見かける。魔法学院を調べているのか、それとも——」
教授の目がリーナを見た。
「君を追ってきたのか」
リーナは黙っていた。
しばらくして、教授が言った。
「そういえば——守護魔法とは別、というか、まったく逆の部類の魔法を使う者がいる。黒魔法の傍流ではあるのだが、そういう脅威には役立つかもしれない。会ってみるかい?」
◇
教室の廊下をパラケルスス教授とリーナが並んで歩いた。教授が窓越しに教室の中を覗く。何人かの学生が談笑している。その中の一人を教授が指さした。
「彼だ」
扉を開けて顔を出す。
「カッシオ、少し良いかい」
学生が振り向いた。二十代の前半だろうか。細い体。目が少し気弱そうだ。
「パラケルスス教授。御用でしょうか」
廊下に出てくる学生——カッシオ。
「君は就職活動中だったね」
「はい。少し行き詰まっています」
教授がリーナに向く。
「彼の魔法は、身体干渉魔法の傍流なんだ」
「というと?」
「人のお腹を痛くすることが出来る」
リーナが首をかしげた。カッシオが丁寧に補足した。
「厳密に申しますと——相手の体の痛んでいる部分を刺激します。お腹が弱っている人はお腹を、肺が弱っている人は肺の具合を悪くします。一時的ですが」
「そう、黒魔法といっても——相手が死んだりはしない」教授が言う。「気味悪がられることが多くて、あまり就職先がありません」
「聖シュタイン帝国からは内定をもらっているのですが——騎士団の後方支援は、ぞっとします」カッシオが小さな声で続ける。「私が敵の具合を悪くしている内に、騎士団がとどめをさすのでしょう」下を向いた。「敵とはいえ、たくさんの人が死ぬのは嫌です」
「それで——銀行の守衛だったらどうだろうか」教授が言う。
「人が死なないのであれば、働きたいと思います」
リーナはカッシオを見た。
「あなたの魔法は——強盗が来た時に使えますか」
「……来たことがないのでわかりません」
「来たら、使えますか」
「……腹が痛くなれば、断念して逃げるのでは?」
リーナの頭に、遍歴の騎士の顔が浮かんだ。酒瓶の首を音もなく切り落とした男。あの男でも、お腹が痛くなれば——
間があった。
「採用です」
◇
夕暮れが近いアルカディアの街。リーナとカッシオが並んで坂道を下りながら、リーナが話していた。
「銀行は石造りの小さな建物です。エルネストという守護魔法使いがいて——通帳を作ったり、建物に魔法をかけたりしています。人が良くて、商売が苦手で、断れないのだけれど——魔法は本物です。農民が安心してお金を預けられる仕組みを支えているんです」
カッシオが聞きながら歩いている。「なるほど——」
突然、前に人が現れた。路地の角から。背の低い男。あの修道衣だった。
「少し、お時間をいただけますか」
静かな声。だが——足が前に出てくる。
「もしかして、またエアルの銀行に魔法使いを連れていこうとしていらっしゃる?」
「あなたは?」
リーナが立ったまま言う。男が服の裾をめくった。そこに——セルヴィアの紋章。
「法王国セルヴィアから来ました。あなた方は神に背く魔法を使って、国民を欺こうとしている」
「私たちは何もやましいことはしていません」
「それならそれで——裁判で自らの潔白を晴らす必要があるのでは?」
裁判。リーナの頭に一つの言葉が浮かんだ。
異端審問。
「逃げましょう」
カッシオの手を掴んで、走り出す。
「逃がしません」男が追ってくる。思ったより足が速い。背は低いが、追いついてくる。
カッシオが走りながら振り返った。一瞬、目を閉じる。
突然——男が転んだ。石畳の上に崩れ落ちるように。足を抱えてうずくまっている。う、う、と声が出ている。
リーナが立ち止まって振り返った。
「どうしたの?」
「多分——こむら返りです」カッシオが答えた。「治りますよね」
「ええ。十分もせずに……」
まだ足を抱えてうなっている司祭。二人はその場を去った。
◇
エアルへの帰り道、馬車の中で二人は並んで座っていた。山が後ろに遠ざかっていく。しばらく黙っていた。やがてカッシオが言った。
「あの聖職者——何者だったんでしょう」
「法王国のスパイだと思います」リーナが窓の外を見ながら答えた。「スパイが私たちを見張っていた。だとすると」
リーナの声が少し低くなった。
「エアルに戻ったら、すぐに報告しなければ」
馬車は、山を抜けていった。




