第21話 過去からの囁き
翌日。『金色の麦』の二階で、ナディールとアルヴィンが向かい合っていた。
「イサッコの財産を差し押さえたら——カラカス地方の権利書があった」ナディールが地図に視線を落とす。
「農民から違法な借金のかたに取り上げた土地だ」
「その農民だが——土地を無くして、どこかへ行ってしまったらしい。行方は探しているが、土地は取り敢えず国で管理する。この間話した蒸留所の近くだ」
ナディールが顔を上げた。
「一緒に——見に行かないか。興味がありそうだったろ」
アルヴィンは少し考えた。
「良いだろう」
「ああ、リーナにも声をかけてやってくれ。あの土地、何かがありそうだ」
「……確かに」
脳裏に、あの白くなった壁が思い浮かんだ。アルヴィンが立ち上がった。
◇
翌朝、カラカス地方。馬車が止まった。田畑が続く道の先に林があって、木々の間から秋の光が差し込んでいる。
馬車を降りたアルヴィン、ナディール、リーナの前に——老いた男が立っていた。七十に近いだろうか。日焼けした顔に大きな手。斧を肩に担いでいる。
「こちらへ」
短く言って、歩き始める。木こりだ。
◇
林の中を四人が進んだ。落ち葉が足の下で鳴る。鳥の声、風の音。木々が深くなるにつれて足元まで届く光が減っていく。
リーナが足元に気をつけながら歩いている。神妙な顔をして、しきりに周囲を見回していた。何かを感じているのかもしれない。
木こりは先を歩きながら、ちらりとナディールの横顔を見た。何度も見返すが、何も言わなかった。
突然——廃屋が現れた。林の中に、唐突に。石造りの建物。壁は苔むしていて、蔦が絡まっている。入口の前は——植林で塞がれていた。細い木々がぎっしりと並んで、まるで誰かが意図的に植えたように。
ナディールが立ち止まった。
「こんな林の中に」低い声で言う。「何かを——隠そうとしたのか」
木こりは黙っていた。その問いに答えない。ただ、静かに立っている。やがて言った。
「入口はこちらです」
植林の隙間を抜けるように、細い道が一本だけある。
「私はここで待ちます」
三人が中へ入った。
◇
薄暗い。目が慣れてくると——広い部屋が現れた。天井の一部が抜けていて、空が見える。秋の青い空が。
その下に——大きな蒸留窯が、どっしりと座っていた。銅製だろうか。緑青が吹いているが形はしっかりしている。
アルヴィンがゆっくりと歩き回った。窯を触り、継ぎ目を確かめる。
「一部の天井が落ちてはいるが——蒸留窯の辺りは大丈夫だ。古いものだが、手を入れれば使えそうだ」
独り言のように言いながら窯の裏側に回る。
「まずはブランデーからだな」
少し考える顔。
ナディールは——窯に近づいていた。その表面を、指でそっと撫でる。
「……これは」
声が低くなった。
「エーレンベルク家の紋章だ」
立ち尽くす。銅の表面に刻まれた紋章——それは埃にまみれながらも、確かにそこにあった。
◇
リーナは天井を見上げていた。穴の向こうに、空。雲がゆっくりと流れていく。
パラケルスス教授の声が蘇る。
——アルヴィンには魔法の資質がない。でも魔法の残り香がある。
——数カ月前にエアルの東で、静かな光が——
「この間は実験室ばかり見ていましたが」リーナが呟いた。「この部屋は……」
指先が、わずかに震えた。
「ここで——昔、何か大きな魔法が使われた。ああ——これが、魔法の残り香なんですね」
目が天井の穴を離れた。窯の上を辿っていく。紋章のはるかに上——壁と天井の境目に近い場所に——刻まれているものがあった。
鳥のような形。広げられた、大きな翼。
「……あそこに描かれているのは」
リーナが息を飲んだ。
「ヴェルダ、でしょうか」
アルヴィンが窯から顔を上げる。ナディールが紋章から目を離す。三人が、その刻み込まれた形を見上げた。
誰かが、ずっと昔に刻んだもの。この部屋を作った者が——残した、もの。
しばらく、静寂があった。
◇
馬車が林の出口まで戻ってきた。三人が乗り込む。木こりが見送っていた。
馬車が動き出す。蹄の音。車輪の音。木こりは動かなかった。ナディールの後ろ姿を——見ていた。馬車が遠ざかっていく。
木こりが呟いた。
「……似ている」
誰に言うでもなく、自分で噛みしめるために。
◇
カラカス地方の土地の境界に、杭が打ち込まれていた。イサッコの名で打ち込まれた——その杭を。アルヴィンが両手で掴んだ。引っ張ると、ぐらりと揺れて——抜けた。
ナディールも一本。リーナも一本。三人で次々と引き抜いていく。
「イサッコがこの辺りの土地を奪おうとした理由は——まだ分からないのか?」
「ああ」ナディールが答えた。「脅しても透かしても——なかなか口を割らない。よほど、黒幕が恐ろしいのだろう」
「自由都市リミニか」
アルヴィンが杭を地面に放った。
「またあの騎士が来たらどうしましょう」リーナが言う。
「一応——遍歴の騎士は指名手配にした」ナディールが続ける。「大手を振って国境は越えられないが、完全に安心というわけでもない」
その時。
遠くから——声が、響いた。
ケェケェーン。ケェケェーン。
聞いたことのない声だった。鳥の声でもない。獣の声でもない。何か、別のものの。
「何だあの声は」ナディールが周囲を見回す。
アルヴィンが——山の稜線を見た。稜線の向こうに、何かが動いている。遠い。でも——確かに、動いている。
「あれは——」
ポロリ、と。掴んでいた杭が、手から落ちた。土に刺さる。
「どうした」ナディールがアルヴィンの顔を見た。「何か見えたか」
アルヴィンはしばらく山の稜線を見ていた。風が草を揺らした。やがて、静かに言った。
「……かも知れない」
ケェケェーン。
声はもう一度だけ聞こえて——それから、消えた。
三人は、しばらくその場に立っていた。秋の風が草原を渡っていく。
リーナがゆっくりと空を見上げた。蒸留所の抜けた天井の向こうで見た空と——同じ空が、広がっていた。




