第19話 十人委員会
自由都市リミニ。
石畳の広場を取り囲む重厚な建物の最上階に、大きな部屋がある。蹄鉄のような形の大きなテーブル。革張りの椅子が十脚。壁には航海図と各地の相場表——数字と線と記号で埋め尽くされた、この都市の頭脳だ。
十人の男たちが、そこに座っていた。
これが——自由都市リミニを統べる、十人委員会。
◇
中央に立つ若い事務官が羊皮紙を広げた。声は落ち着いている。
「今期の運用成績を申し上げます」
部屋が静まり返った。
「アゴスティーノ殿。運用益五億九千八百万ドゥカート。投下資本利益率、五・五パーセント」
六十代の男が無表情で聞いている。白い顎髭。軍人のように背筋が伸びていた。
「バルトロメオ殿。運用益六億二千四百万ドゥカート。利益率、六・六パーセント」
五十代の男が、指先で軽くテーブルを叩く。数字を聞くと指が動く——彼の癖だ。
「フィリッポ殿。運用益四億五千四百万ドゥカート。利益率、七・二パーセント」
四十代の男が小さく頷く。委員の中で一番若い。その顔に、かすかな緊張の色があった。
報告は続く。他の委員たちの数字が読み上げられていく。そして——
「ロレンツォ殿。運用益九億七千三百万ドゥカート。利益率、七・五パーセント」
部屋の空気が変わった。
「従いまして今期の十人委員会議長は、ロレンツォ殿が再任されました」
拍手。揃った乾いた拍手が響いた。
テーブルの奥で、一人の男が立ち上がった。六十代。派手さのない服装だが、重厚な作りだ。ロレンツォ・ディ・ヴァザーリが軽く会釈をする。
「ありがとうございます。皆様の御支援のおかげです」
穏やかな声。しかし、感情が見えない。
◇
「それでは本日の議題に入ります。一号議案——エアル王国における街道整備の件」
事務官が羊皮紙を手に取り、地図が広げられた。委員たちの視線が一点に集まる。
「街道が完成すればエアルへの輸送コストが下がるな。商機だ」と端の委員が言う。
「いやいや」バルトロメオの指がテーブルを叩く。「これまで税収不足で伸ばし伸ばしになっていた街道整備が急に動き出した。聖シュタインの圧力に違いない」
「知れたこと」アゴスティーノが低い声で鼻を鳴らした。「奴らの目的はポルタヴェルデだ。街道が完成すればいつでもあの飛び地に軍隊を送り込める」
「ポルタヴェルデが掌握されれば——自由都市にとっては由々しき事態です」フィリッポが身を乗り出した。「一度、聖シュタインにお灸をすえる必要がありますな」
「軍事力より経済だと、思い知らせねば」アゴスティーノの声に力が入る。
「それよりも」バルトロメオが別の方向に指を向けた。「エアルはどうやって資金を調達したのだろう。つい先日、先王の利子も一括で返済している。急激に金回りが良くなっているな」
「国立銀行を開設したとか。あれじゃないでしょうか」フィリッポが答えた。「魔法のかかった通帳が貰えるとかで、人気があるそうです」
「あれはアルカディアの魔法に違いありません」「資金調達の手段も気になります」「オプション取引とか言う手法を使ったとか」
議論が広がる。声が重なる。
ロレンツォは——黙っていた。椅子に深く座り、組んだ手の上に顎を乗せて。静かに聞いている。冷静な目が、空中の一点を見ていた。
◇
夕暮れのロレンツォの自室。窓から港が見える。船の帆が橙色に染まっていた。
傍らにマルティーノが立っている。いつものように。音もなく。
「土地の使用権を売って街道を整備したと思えば——今度は銀行か」
ロレンツォの視線は窓の外に向いたままだ。
「あの宰相、それほどの切れ者とは思わなかったが」
しばらく沈黙。波の音が遠く聞こえる。
「そして……私がイサッコに教えた守護魔法を——はるかに上回るスケールで、使ってきた」
ロレンツォの指が、かすかに動いた。
「これは、偶然か……あるいは」
「マルティーノ」
「はい」
「ファブリツィオを呼びなさい」
「承知しました」
マルティーノが一歩前に出た。三十年変わらない、穏やかな声。
「遍歴の騎士殿をお呼び致します」
◇
エアル国立銀行。朝。
扉が開いた瞬間から、人が並んでいた。農夫、商人、仕立屋、神父。老人、若者、子供を連れた母親。皆が通帳を手に持っているか、これから作りに来た人たちだ。窓口に数名の行員が立ち、次々と対応している。
「新規の口座開設ですね。こちらにお名前と住所をお願いします」「融資につきましては、お話を聞く必要がございますので予約制にしております」「次の方、どうぞ」
その奥でフェルディナントが、すごい勢いで帳簿をつけていた。羽ペンが走る。数字が並ぶ。左の列。右の列。借方、貸方——一つの取引が、二つの顔を持って記録されていく。
フェルディナントが、ふと、手を止めた。目が遠くなる。
あれは、先週のことだ。
アルヴィンがこの机の前に座っていた。
「帳簿を左右に分けるんだ。左に資産の増加と負債の減少。右に資産の減少と負債の増加を書く」
フェルディナントは首をかしげた。「……左と右に? 二度手間ではありませんか」
「簡単に言えば、一つの取引を二つの側面から記録する」アルヴィンが羊皮紙の端に書いた。「パンを買えば——パンが増えて、お金が減る。二つのことが、一度に起きている」
フェルディナントは黙った。しばらく、ペンを持ったまま。そして——
「……待ってください」
目が変わった。
「では預金者が金貨を百預けたら——」自分で計算している。「そうか。金貨が百減って、預金が百増える。銀行は——金貨百が増えて、返済義務が百増えるんだ」
立ち上がりかけた。
「なんて……すっきりするんだろう。これなら何が起こったのか分からなくならない」
アルヴィンを見上げる。
「アルヴィンさん、あなたは天才だ。もっと複式簿記のことを教えてください」
アルヴィンが口の端で笑った。悪い笑みだ。
「そんなことを言うと、朝まで帰れなくなるぞ」
フェルディナントは我に返った。窓口がまた騒がしくなっている。羽ペンを走らせる。帳簿の列が伸びていく。左。右。左。右。この規則の中に——全ての取引が、消えることなく刻まれていく。
部屋の奥では、エルネストが通帳に魔法をかけ続けていた。大きな手が通帳に触れる。かすかな光。温かい感触。守護の魔法が、紙の中に染み込んでいく。
「次の方、通帳をお持ちください」
エルネストが言う。少し疲れた顔で。でも——手は止まらない。
◇
夜の『金色の麦』二階。ナディールとアルヴィンが、地図を広げていた。羊皮紙の上に描かれた、大陸の形。エアルを取り囲む四つの国——北に聖シュタイン帝国、西に自由都市リミニ、南に法王国セルヴィア、東にアルカディア公国。小さな王国が、四つの大きな国に挟まれている。
「グラリキス街道のオプション販売と、銀行のおかげで——自由都市への利息は返済できた。礼を言う」
「元本返済にはまだ時間がかかるがね」アルヴィンが地図の一点をトントンと叩いた。「聖シュタインが街道整備を急かすのは——この飛び地のせいか」
ナディールの顔が、わずかに曇った。
「ヴァルトエック、我々はそう呼ぶが、シュタインはアイゼンガルト、リミニはポルタヴェルデ、それぞれが勝手な名前で呼んでいる土地だ」低い声で言う。「元々はエアルの土地だったが、帝国に割譲させられた。街道が繋がれば——帝国はいつでも自由都市の喉元に軍隊を送れる」
「自由都市は黙っていないな」
「ああ。今頃、十人委員会が策を練っているだろう」
「十人委員会?」アルヴィンが水を手に取る。
「自由都市に王はいない。莫大な供託金を積んだ者が委員となり——一番国の資産を増やした者がその議長となる」
アルヴィンが手を止めた。
「運用成績でトップが決まるのか」クスリ、と笑う。「まるでファンドマネージャーだ」
「笑い事ではないよ」ナディールが眉を寄せた。「恐ろしい男たちだ。ある意味——帝国よりも怖い相手だぞ」
アルヴィンは笑みを消した。「なるほど」
しばらく、二人とも黙っていた。ランプの油が静かに燃えている。
「ところで」アルヴィンが口を開いた。「国庫は厳しいが——新しい事業をしたい。また人を集めて欲しいんだ」
「新しい事業?」
「一つは紙だ。羊皮紙は高い。エアルは麦の産地だから——藁から紙を作りたい。藁と木灰を煮込む。水がたくさん必要だ」
ナディールが考え込む顔をした。
「それと——」アルヴィンが、少し声のトーンを変えた。「イサッコに奪われそうになった土地の近くに、壊れた設備を見つけた。この間、話しただろう」
「蒸留窯とかいう?」
「直せば蒸留酒を作れる。どうして放置されたかは分からないが——直せそうに見えた。ブランデーかグラッパか、本命はウィスキーだが、あれは熟成に時間がかかるからな」
「蒸留……」ナディールが首をかしげた。「聞いたことが無い」
「ああ、そうそう」アルヴィンが地図の上を指した。王家の紋章が、そこに描かれている。「その窯に、それと同じ紋章が入っていた」
ナディールの目の色が変わった。アルヴィンはそれを察したが、何も聞かなかった。




