第17話 燃えない通帳
夜も更けた頃、三人は一階に降りていた。他の客はもう帰っていて、ランプの明かりが揺れている。アルヴィン、ナディール、フェルディナントの三人が、テーブルの隅で飲んでいた。フェルディナントの顔は赤い。酒に弱いのか、あるいはまだ興奮が冷めないのか。
「良い考えだと思ったんだがなぁ」アルヴィンが天井を見上げた。
「いえ、ものすごいアイディアです」フェルディナントが力を込める。「私、心底体が震えました」
ナディールがワインを飲みながら言う。
「確かに、自分の家や土の下やあちこちに金を持っているやつは多い。だがそれは大事な大事な金を安全に守るためだ。その大事な金を預けてくれと言っても、やすやすとは応じてくれない」
グラスをテーブルに置いた。
「ましてや相手が国や王だったら——自分の都合で預けた金を自分のものにしかねない」
アルヴィンは黙ってナディールの言葉を聞いていた。
憲法もなく、マスコミもない時代。王は絶対者だ。この極端に不平等な環境で信用を得るには——考えが、まとまらない。
◇
その時。入口のドアが開いた。鈴が鳴る。
リーナが入ってきた。店内を見渡して、すぐにアルヴィンを見つけた。スタスタと真っ直ぐに歩いてくる。
「やっぱり飲んでいますね」少し不機嫌だ。
「リーナ、どうした」
「リーナ久しぶり」ナディールも手を挙げた。
リーナはナディールに軽く会釈してから、すぐアルヴィンに向き直った。
「どうしたじゃありません。店を閉めた後にもしやと思って寄りましたが——遍歴騎士に狙われているのにこんなところで酔っぱらって」
「それは…心配かけたな」アルヴィンが頭を掻く。「でも、イサッコ対策を含めた作戦会議をしていたんだ」
「作戦会議?」リーナの眉が少し上がった。
「座れよ」アルヴィンが椅子を引いた。リーナが座る。フェルディナントが慌てて頭を下げた。
「は、はじめまして。フェルディナントと申します」
「リーナです。アルヴィンさんの店で働いています」
「……あ、あの、魔法使いの方、ですか」エプロンの刺繍に気づいたらしい。
「はい」リーナがにこりと笑った。「小さな染み抜きしかできませんけど」
◇
アルヴィンがリーナに説明した。銀行のこと。信用創造のこと。そして——今、壁にぶつかっていること。
「農民が安心してお金を借りられる銀行を作りたい。だが、国民全員から信用され、安心してお金を預けられる仕組みも必要なんだ」
「安心してお金を預ける仕組み?」
「預けた金額が書いてあって、いつでも確認できる帳面——通帳、と呼ぼう——を渡す。だがただの紙切れでは信用されない」
「そうなんだ」とナディールが呟く。
「書き換えられない。破れない。燃えない——そういう通帳が作れれば、預けた金が守られている証になる」
アルヴィンが両手を広げた。
「だが、そんなものをどうやって作るか、だ」
三人が黙った。煮詰まっている。ナディールがワインを飲む。フェルディナントが眼鏡を押さえる。アルヴィンが天井を見る。
リーナは——黙って聞いていた。
書き換えられない。破れない。
その言葉が頭の中で響いている。
イサッコの書斎が浮かんだ。薄暗い部屋。羊皮紙の束。ブルーノの契約書に手を伸ばして、染み抜きの魔法をかけた。三十の字が——震えるだけで——動かなかった。
あの魔法。
破れない。消せない。書き換えられない。
あの魔法を——正しいことに——使えば。
「……守護魔法」
リーナが呟いた。小さな声。三人が振り向いた。
「守護魔法を、かければいいんじゃないですか」
はっきりした声が響いた。
「イサッコの契約書——あれは、書き換えられませんでした。私の染み抜きでも消せなかった。破れない。燃えない。改ざんできない——アルヴィンさんが言ったこと、そのままです」
アルヴィンの目が見開かれた。
そして——同時に。
「エルネスト!」
アルヴィンとリーナが、一緒に叫んだ。
ナディールが二人を見る。フェルディナントがきょとんとしている。
「誰です?」
アルヴィンが笑った。
「世界一お人好しの、守護魔法使いだ」
◇
数日後、エアルの街の石畳の道に馬車が止まった。車輪が軋む。扉が開いて、一人の男が降りてきた。
少し猫背。茶色のぼさぼさ髪。旅装束で、荷物が少ない。エルネストだ。きょろきょろと辺りを見回すと、目の前に看板。
『金色の麦』。
「ここ……かな?」
酒場の扉を開けた。昼時で、数人の客が食事をしている。バーテンダーが怪訝な顔でエルネストを見た。見慣れない男だ。エルネストがおどおどと「あの……アルヴィンさんから手紙をもらいまして」と言いかけた時——奥のテーブルから。
「エルネストさん!」
リーナが駆け寄ってきた。ぱあ、と笑顔が広がる。
「よく来てくれました」
「い、いやぁ……」エルネストが頭を掻く。大きな手。「手紙をもらったんですが、詳しいことは何も書いてなくて」
「アルヴィンさんは、いつもそうです」リーナが少し呆れたように笑った。「大事なことほど言わないんです。こちらです」
リーナが階段を上がる。エルネストが後をついていく。猫背の大きな体が、狭い階段を上った。
◇
二階の個室の扉を開けると、アルヴィン、ナディール、フェルディナントの三人が待っていた。
「よく来てくれた」
アルヴィンが立ち上がり、エルネストの肩を叩いた。エルネストが少しうつむいた。
「あの後——ずっと、被害にあった人たちに謝りたいと思っていました」
声が低い。大きな手が握られている。
「その汚名をそそげるのであれば、何でもしますよ」
「ああ。聞いてくれ」
◇
アルヴィンが説明した。銀行のこと。通帳のこと。そして——守護魔法で通帳を守ること。
説明を聞き終えて、エルネストが震えていた。大きな体が、小さく。
「今度は……」声がかすれる。「本当に、守るための魔法ですよね」
アルヴィンがエルネストを真っ直ぐに見た。
「農民の、なけなしの金を守る」
エルネストの目が——赤くなった。
「……やらせてください。お願いします」
大きな手が、震えている。
◇
テーブルの上に、羊皮紙で作られた小さな帳面がある。通帳だ。フェルディナントが仕立てたもので、表紙に「預金通帳」と書いてある。几帳面な字だ。中には日付と金額を記す欄。左に預入、右に引出、下に残高。まだ何も書かれていない——真っ白な帳面。
エルネストが通帳の前に座った。両手をかざし、目を閉じる。
「守護魔法は」静かな声。「思いやりの意思で成り立ちます」
部屋が静まった。五人が息を止めている。
「この通帳を持つ人の財産を——守りたい。その気持ちが、嘘でなければ……」
エルネストが詠唱を始めた。守護魔法——ウィス・クストーディア。手のひらから光が溢れ、通帳を包む。柔らかな光だ。通帳が輝いた。そして——明滅を繰り返す。一度。二度。三度——
光が収まった。
通帳がテーブルの上にある。見た目は変わらない。でも——何かが、違う。
◇
実験が始まった。
ナディールが蝋燭を手に取り、炎を通帳に近づけた。さらに近づける。もっと近づける。
——燃えない。
炎が、通帳の表面で弾かれている。
「おお……」
フェルディナントが水の入ったグラスに通帳を浸した。引き上げる。
——濡れていない。水が弾かれて落ちていく。
アルヴィンが通帳の両端を持ち、引っ張った。力を込める。
——破れない。びくともしない。
四人が驚嘆した。エルネストがくすぐったそうな顔をしている。照れている。
リーナが通帳に手を伸ばした。そっと触れる。指先が——止まった。
「……温かい」
小さな声。
「前に、イサッコの契約書に触った時は——何も感じなかった」
目が少し潤んでいる。
「でもこれは——温かいです」
エルネストが、ぐっと唇を噛んだ。目を伏せて、大きな手を握りしめた。




