第16話 信用創造
秋の日差しが、窓から斜めに差し込んでいる。棚の上の石鹸に光が当たって、ほんのり白く輝いていた。
アルヴィンが外套に袖を通していた。出かける準備だ。カウンターの向こうでリーナが一人、帳面を広げている。少し不満そうな顔をしていた。
「今日も出かけるんですか」
「ナディールと、野暮用だ」
「最近、毎晩ですね」
少し間が空く。
「お店、大丈夫でしょうか」
アルヴィンが、おや、という顔で振り向いた。
「だから君がいるんだろう」
「……それは、そうですけど」
リーナは羽ペンを止めた。何か言いたそうな顔をしている。
アルヴィンは扉に手をかけた。
「閉店後は戸締まりを頼むよ」
鈴が鳴る。扉が閉まった。
リーナが一人になった店内で、ため息をついた。
「……また、遅くなるんだろうなぁ」
◇
酒場『金色の麦』の二階。二人が互いに正体を明かした、あの個室だ。壁に掛かったランプが橙色の光を落としている。テーブルには水差しと羊皮紙。
「この部屋を借り切った」ナディールが言う。「今後、重要な話はここでしよう」
アルヴィンが椅子に深く座り、水を注いだ。
「いいね。王宮に来いと言われるよりずっといい。話が終わったら下で飲めるからな」
ナディールが頷く。そして——裾から何かを取り出した。
小さな石だ。革紐に通されたペンダント。石の表面に、かすかな光が揺れている。アルヴィンの前に差し出した。
「何だい、これ?」
「王室に伝わる身代わり石のペンダントだ」
ナディールの声は穏やかだが、目は笑っていない。
「一回しか使えないが、身を守ってくれる。自由都市の遍歴騎士に目をつけられたとなれば——今はお前が持っていた方がいい」
アルヴィンがペンダントを手に取った。軽い。でも——触れると、ほんのりと温かかった。
「ああ、あの酒瓶の首を斬っていった騎士か。見事な腕だった」
「……笑い事ではない」
ナディールが、ペンダントをアルヴィンの手に押し付ける。
「持っておけ。あの騎士の前では気休めだがな」
アルヴィンも笑って——「ありがとう」と首にかけた。石が、胸元で揺れる。
◇
机を囲んで、話し合いが始まった。テーブルの上に、ナディールが持ち込んだ羊皮紙の束が広げられた。
「まず、これを見てくれ」
一枚の羊皮紙が、アルヴィンの前に滑らされる。利子の返済要求書だ。自由都市リミニからの督促。書体は格式張っていて、印章が重々しい。
「年間の利払いだけで金貨七十五万枚。国の税収が三百万枚だ。二割五分が利子で消える」
「元金は」
「金貨五百万枚」
「……誰がそんな金を借りた」
ナディールが答えるまでに、間があった。長い間だ。
「父だ」
静かな声。握りしめた拳が震えている。
「先王フリードリヒ——俺の父親が、自由都市から金を借りた」
「何に使った?」
「分からない」
ナディールが言葉を詰まらせながら言う。
「研究に没頭していた、とだけ聞いている。魔法に測量、実験——政治は叔父に任せきりで、国庫に穴を開けて、死んだ」
声に、感情がない。何度も同じことを考えてきた男の声だ。
「それだから先王の評判は最低だ……」
少し、肩が落ちる。
「俺には大きなことは出来ない。出来ることは——この借金を返して、列強をいなして、この国を一日でも長く持たせることだけだ」
アルヴィンは黙って聞いていた。
前世で——自分も「まいた種」で人を苦しめた。ナディールは父の「まいた種」の後始末をしている。立場は違う。でも——似た者同士かもしれない。
◇
アルヴィンが羊皮紙の数字に目を落とした。指で数字をなぞる。
「年間七十五万枚の利払い、元金五百万枚……利率は年十五パーセントか。高いな」
「小国が大国から借りれば、そうなる」
「返済の原資が足りないから借金が減らない。借金が減らないから利子を払い続ける。利子が重いから新しい産業に金を回せない。悪循環だ」
「分かっているよ」ナディールがため息をついた。「だから困っている」
「一つ聞くが」アルヴィンが頷いてから言う。「この国の農民は、余った金をどこに置いている」
ナディールがつまらなさそうに言う。
「……床下か、壺の中だろう」
アルヴィンの目が——笑った。
「その金が、動いていない。国中の床下に眠っている金を一カ所に集めて回せば——税収が増える。経済が動く。利子を払っても余りが出る」
「どうやって集める」
「預かるんだ」
「その仕組みは……」少し考えてから「今度、数字に強い若手の役人を連れてきてくれないか?」と言った。
◇
翌朝。雑貨屋に朝の光が差し込んでいた。アルヴィンとリーナが棚の商品を並べ直している。ロウソク、石鹸、紐——いつもの朝。
アルヴィンが大きな欠伸をした。
リーナが横目で見る。
「昨日も遅かったようですね」
「ああ、ナディールと農民に金を貸す仕組みについて話していた」
「あら?」
リーナの目が、アルヴィンの胸元で止まった。革紐に通された、小さな石のペンダント。かすかに光を帯びている。食い入るように見つめる。
「ああ、これか。変なものじゃないぞ。ナディールが貸してくれた」
「分かります」
リーナが目を細めた。
「これ、魔法の道具ですよね」
魔法使いの目だ。普通の人間には見えないものが、リーナには見える。
「この間、酒場で遍歴騎士に待ち伏せされてね」
リーナの手が止まった。石鹸を持ったまま。
「なんですって!」
振り向く。
「何でそんな大事なことを黙ってるんですか」
声が高い。アルヴィンが肩をすくめる。
「大事にはならなかった」
「大事にならなかったからいいって話じゃありません!」
リーナの頬が赤い。怒っている。でも——それは、心配しているからだ。
◇
数日後、夜。『金色の麦』二階の個室で、アルヴィンが先に待っていた。テーブルの上に羊皮紙とインク壺。
階段を上がる足音が、二つ。扉が開いてナディールが入ってきた。その後ろに——一人の若い男。
「一人、連れてきた。フェルディナントという男だ」
若い役人が部屋に入った。痩せ型で、背筋だけはぴんと伸びている。眼鏡をかけていて、指先にインクの染みがある。帳簿仕事をしている手だ。
緊張していた。無理もない。理由も告げられず、宰相にお忍びの酒場通いにつきあわされたのだから。きょろきょろと部屋を見回して——テーブルの向こうに座っている男に気づいた。
困惑する。
「……失礼ですが、どちら様でありますか」
ナディールがさらっと言う。
「お前の新しい上司だ」
「は?」
ナディールがアルヴィンに向き直った。
「財務の書記官をやっている。数字に誠実な男だ。あの部署では使い潰されるだけだ」
アルヴィンがフェルディナントを見た。値踏みする目——阿久津の目だ。
「帳簿は好きか」
フェルディナントが背筋をさらに伸ばした。
「好き、というのは……」少し考える。「正確であるべきものだと思っております」
アルヴィンの目が、変わった。
「いい答えだ」
◇
「実は、農民たちが安全に金を借りられる銀行をつくりたい。だが、十分な金がない」
「はぁ?」
フェルディナントが首をかしげた。銀行——聞いたことのない言葉だ。
「例えば金貨一万枚があるとする」アルヴィンがテーブルの上に指で丸を描いた。「それをそのまま貸せば一万枚を貸し付けて終わりだが……もっと有効な方法がある。貸すだけじゃない。預かるんだ」
フェルディナントの目が見開かれた。
「預かる?」
「この国には農夫や商人や大工、色々な人の家に金が留まっている。これを預けさせる」
アルヴィンが指で図を描いていく。テーブルの木目の上に。
「例えば、農民Aに金貨を百枚貸す。Aは種を買う。それを受け取った種屋が百枚を銀行に預ける。銀行はその八十枚を別の農民Bに貸せる。一万枚が動き回って、何万枚にもなる」
ナディールが腕を組んで考え込んだ。
「……金が増える、ということか?」
「金は増えない。動く回数が増えるんだ」
突然、フェルディナントが口を挟んだ。
「お待ちください」
早口だ。数字の話になると、口を出さずにはいられない。
「預かった金の全額を貸し出したら——預金者が引き出しに来た時に払えません。一定の割合を手元に残す必要があるのでは」
アルヴィンが——ニヤリ、と笑った。
「分かるじゃないか。準備率だ。預かった金の二割は金庫に残す。残りの八割を貸す」
フェルディナントが即座に暗算を始めた。目が宙を見ている。指が膝の上で動いている。数字を、追っている。
「二割を残して八割を貸す。それが再び預金される。また二割残して……」
声が、震え始めた。
「元手一万枚で、理論上は最大……金貨五万枚の貸出が可能になります」
沈黙。三人とも、黙っている。
ナディールが「……国の年間税収の数パーセントの規模になる」顎に指をあてあてる。「思いつきにしては、大きいな」
「思いつきじゃない。仕組みだ」
アルヴィンが声を潜める。
「これを——『信用創造』という」
ナディールの目が輝いた。宰相の目だ。
「確かに実現できればいずれは先王の利子も返せるし、農民も低利で借りられる。問題が一度にかたづく…」
立ち上がった。
「街道が国の骨格なら、金は血液だ。血液が回ればこの国は健康になるぞ」
フェルディナントは震えていた。眼鏡の奥の目が潤んでいる。
「あの、何と申し上げれば良いか……興奮が止まりません」
アルヴィンがフェルディナントを真っ直ぐに見た。
「銀行を立ち上げるのは大変な仕事だ。馬車馬のように働いてもらうことになるぞ」
フェルディナントは背筋を伸ばした。さっきより——もっと、真っ直ぐに。
「いえ、その価値があると思います。是非、私にやらせてください」
「よく言った。それなら、新しい帳簿のつけ方を教えよう」
「新しい……帳簿?」
フェルディナントの目が光った。好奇心を押さえられない顔。数字に正直な男の——顔だ。




