第98話 選びとる進路
数日後。
東宮殿に姿を現した尹怜は、ひと目で分かるほど疲れ切っていた。
肩は落ち、息を吐くことすら億劫になっているかのような顔つきである。
「邸下、弘文館校理もお呼びください」
(おや・・・・?)
その言葉に、世子は内心でわずかに違和感を覚えた。
普段であれば、このような場には最初から二人揃って現れるのが常である。
しかし今は違う。
世子は尹怜の表情を一瞥し、あえて何も問わなかった。
やがて朴紘範が到着し、場が整う。
尹怜は開口一番、疲労の滲んだ声で告げた。
「白俊から連絡が入りました」
その名を聞いた瞬間、朴紘範の口元がわずかに緩み、世子は胸の奥で嫌な予感を抱く。
「三日後に陽漢へ入るとのことです」
世子は眉をひそめた。
「十日前に知らせるはずではなかったのか」
問いに対し、尹怜は深く息を吐きながら答える。
「十日前に出したそうです」
「どういうことだ?」
「書いた時点では確かに十日後という意味になります」
それ自体に虚偽はない。
だが結果として意味を成していない。
世子は低く呟いた。
「人を弄んでいるな」
その言葉に、朴紘範はこらえきれず肩を揺らした。
その時だった。
「世子嬪様がお見えです」
内官の声が入り、空気がわずかに引き締まる。
尹怜と朴紘範は反射的に席を外そうとしたが、
「残れ」
世子の一言で動きを止めた。
少しして、世子嬪が室内へと入る。
まず世子へ礼を尽くし、続いて弘文館校理、そして左副承旨へと順に頭を下げる。
その所作は一切の乱れがなく、静かでありながら場を整える力を持っていた。
その様子を見ながら、世子はふと思いついたように口を開く。
「胃腸に良い菓子を知っているか?」
唐突な問いだったが、世子嬪はわずかに瞬きをしただけで、すぐに落ち着いた声で答えた。
「タシクの中に、蜜柑の皮を甘く煮詰めたものを入れてお出しするのはいかがでしょう」
「贅沢だ」
尹怜の呟きがやや大きく響く。
世子は苦笑しながら世子嬪へ向き直った。
「左副承旨が、歓迎していない客に出すものだ」
その意図を、世子嬪はすぐに理解した。
「それでしたら、ジャガイモを蒸してお出しするのはいかがでしょうか」
場の視線が自然と彼女に集まる。
「菓子は必ずしも甘い必要はございませんし、贅沢にもなりません。
胃にも優しいかと存じます」
その場にはしばし言葉が交わされず、時間だけが静かに過ぎていった。
やがて尹怜が小さく頷く。
「それなら問題はありません」
彼は世子と世子嬪に礼を取り、東宮殿を後にした。
朴紘範もそれに続く。
室内には、世子と世子嬪だけが残された。
「品のない私を見ても、表情一つ変えられなかった方が・・・・」
世子嬪は、静かに独り言のように言葉を落とす。
「いったい、どのようなお客様をお迎えになるのでしょうか」
世子は答えなかった。
答えられなかったという方が正しかった。
世子嬪はそれ以上問いを重ねず、静かに頭を下げる。
「用件は済みましたので、これにて失礼いたします」
丁寧な挨拶と、揺るがぬ距離感。
そのまま彼女は東宮殿を後にした。
残された世子は、その背が見えなくなるまで視線を向け続け、しばらくのあいだ動かなかった。
(むこうから来たか・・・・)
その訪問が何を変え、どこまで波紋を広げるのか。
その先の展開を、世子自身まだ見通せずにいた。
東宮殿を出た世子嬪は、居所へ戻るために外をゆっくりと歩いていた。
春先の空気はまだ冷たさを残しているが、差し込む陽はやわらかく、静かな宮中に足音だけが淡く響いていた。
(いる)
視線を上げた瞬間、進む先に唐順希の姿を捉える。
こちらへ向かって歩いてくるように見えるが、その歩幅や速度、視線の揺れまでもが整いすぎていた。
世子嬪は、そのすべてが計算された動きであることを即座に理解する。
そして、ほぼ同時だった。
別の方向から、大妃殿付きの女官が足早に近づいてくる。
「世子嬪様」
声は抑えられているが、急ぎの気配は隠しきれていない。
「大妃様がお呼びでございます」
その言葉を聞いた瞬間、世子嬪の口元がわずかに緩んだ。
(やはりそうか)
胸の奥で、小さく確かな感情が弾く。
重なりすぎている。
偶然と呼ぶには精度が高すぎる配置だった。
世子嬪は歩みを止めることなく、冷静に思考を巡らせる。
唐順希が偶然を装い世子に接触しようとする可能性。
世子嬪の行動を読むために動線を探る意図。
そしてその一連の動きを、大妃がどの程度把握しているのか。
(関与している)
少なくとも無関係ではない。
世子嬪は今日この時刻に世子のもとを訪れることを、あらかじめ文で知らせている。
しかも封をせず、誰でも読める形で置いた。
それが世子本人に届いたかどうかは問題ではなかった。
(誰かが読むことに意味がある)
宮中とはそういう場所である。
視界の端で、唐順希がこちらに気づいたのが分かる。
歩調がわずかに変わり、声をかけるには十分な距離へと近づいてくる。
だがその瞬間、世子嬪は自然な動きで進む方向を変えた。
あらかじめ決めていたかのように、迷いのない転換だった。
向かう先は居所ではない。
「大妃殿へ参りましょう」
女官は一瞬驚いたものの、すぐに深く頷く。
「かしこまりました」
背後で空気がわずかに張り詰める。
振り返らずとも、唐順希がその場で足を止めたことが伝わってきた。
(偶然を装うには準備が足りない)
世子嬪の歩みは乱れない。
これは回避ではない。
選び取った進路だった。
誰と会うのか。
誰に見せるのか。
そして誰に見せないのか。
そのすべてを、自ら決める。
世子嬪は静かな足取りのまま、大妃殿へと向かった。
背後に残した不自然な巡り合わせが、どのような歪みを生むのかを思いながら。
* * * *
大妃殿の内室は、いつもと変わらぬ静けさに包まれていた。
細く立ち上る香の煙は揺れることなく、外界と切り離された空間であることを際立たせている。
すでに国舅が控えていた。
姿勢は整っているが、その背にはわずかな緊張が滲んでいる。
世子嬪は一歩進み、衣擦れの音を最小限に抑えながら、整った礼をとった。
「世子嬪、参りました」
大妃はゆっくりと頷き、国舅は短く目を伏せる。
「楽にしなさい」
その言葉を受けて腰を下ろすまでの動作にも、無駄は一切なかった。
しばらくのあいだ、誰も言葉を発しない時間が続く。
その静けさの中で、互いの出方を測る空気だけが静かに満ちていった。
先に口を開いたのは大妃である。
「春になり、宮中も人の動きが増えてきましたね」
世間話のようでいて、その言葉の裏には明確な意図が込められている。
「誰がいつどこへ向かったか、以前よりも早く伝わるようになりました」
世子嬪は表情を変えずに応じる。
「宮とは元より、そのような場所にございます」
大妃はわずかに微笑んだ。
「そうですね。ですから言葉というものは、届く相手を選べないこともございます」
直接的な叱責ではないが、十分に意味を含んだ言葉だった。
世子嬪は静かに息を整える。
国舅が続ける。
「特に封のない文は便利である反面、読みたい者の目にも入りやすいものです」
穏やかな口調の中に、父としての気遣いと政治的な判断が混ざっている。
「世子嬪の御心が疑われることは避けたいのです」
その言葉の意味を、世子嬪は正確に受け取った。
世子へ宛てた文がすでに宮中で共有されていること。
そしてそれを問題にしないという判断が、この場で下されていること。
(警告はすでに終わっている)
世子嬪はゆっくりと顔を上げた。
「ご配慮、恐れ入ります」
低く落ち着いた声だった。
再び言葉のない時間が流れる。
大妃と国舅は、世子嬪がどのように応じるかを見極めている。
弁明か、謝罪か、それとも別の応答か。
世子嬪は長く語ることを選ばなかった。
「誰しも、自らの足元に刃が向けられていると知れば、視線を上げずにはいられませぬ」
それだけを告げる。
敵という言葉は使わない。
誰のことかも語らない。
だが、その一言には十分な意味が込められていた。
守るためではなく、対峙する意思を持つ者の言葉だった。
大妃は世子嬪をじっと見つめる。
その視線には厳しさと同時に、値踏みするような色も含まれていた。
国舅は何も言わず、小さく頷く。
それ以上、文の件が話題に上ることはなかった。
大妃は香炉へと視線を移しながら言う。
「宮中では、口を閉ざすこともまた意味を持ちます」
「心得ております」
世子嬪は深く頭を下げた。
内室を出るとき、背に向けられる視線を感じながらも、その歩みは変わらない。
(理解される必要はない)
理解されぬまま進める道もある。
世子嬪はそのことを、すでに知っていた。




