第97話 見せる姿勢
言葉が途切れてから、室内には奇妙に張りつめた時間がゆっくりと流れ続けていた。
世子の顔は近いまま動かず、世子嬪もまた視線を逸らさずに、ただ静かにその場に在り続ける。
互いに言葉を交わさないにもかかわらず、その距離と視線の交錯だけが空間を支配し、わずかな呼吸の動きさえも意識されるほどの緊張が続いていた。
何も起きていないはずの時間が、やけに長く引き延ばされたように感じられる。
その張りつめた均衡を破るように、外から控えめな声が差し込まれた。
「国舅様が、世子嬪の居所にお越しとのことにございます」
その知らせはまず国舅本人に伝えられ、同時に、世子がすでにその場にいるという事実も隠すことなく添えられていた。
国舅はその場で足を止め、わずかに視線を落とす。
世子がいるという状況を、どう扱うべきか。
入るべきか、それとも退くべきか。
判断に必要な時間はごく短かったが、その間にも思考は確実に巡らされていた。
踵を返そうとした、その瞬間である。
室内で、世子が低く言葉を発した。
「入っていただけ」
その声は、世子嬪に顔を寄せたまま、視線を外さずに放たれていた。
世子嬪は、その状況をそのまま受け入れている。
(このままの体勢か・・・・)
内心で淡く呟くが、その思いは表には一切現れない。
世子は動かない。
距離を詰めたまま、あえてその姿勢を崩さない。
その意図は明白であった。
この距離を、そのまま見せるために。
扉が開く。
国舅は室内の様子を一目見ただけで、すべてを理解した。
世子と世子嬪の距離。
視線の向き。
そして、言葉にならない緊張が空間を満たしていること。
軽く、しかし意味を含んだ咳払いがひとつ落ちる。
「失礼いたします」
その声を受けて、世子はようやく身を引き、静かに上座へと移動した。
世子嬪もまた動き、三人の位置関係が整えられる。
やがて新たな茶と菓子が運ばれてくる。
器は整然と並び、香りも申し分ない。
しかし、誰一人として手を伸ばそうとはしなかった。
湯気はゆっくりと立ち上り、やがて細くなり、やがて消えていく。
その変化を見守るように、三人は何も言わず座したままでいる。
時間だけが静かに進み、茶は少しずつ温度を失い、菓子はただ整った形のまま置かれ続けていた。
その間に交わされるべき言葉は、結局一つも生まれない。
やがて、世子が立ち上がる。
「では、これで」
それだけであった。
説明も、補足も、誰かに向けた言葉もない。
ただその一言だけを残し、世子は静かにその場を後にする。
足音が遠ざかり、襖が閉じられる音が、ようやく室内にひとつの区切りを与えた。
残されたのは、世子嬪と国舅、そして手つかずのまま置かれた茶と菓子である。
しばらくの間、互いに言葉を発することなく、ただ同じ空間に座り続ける時間が流れる。
先ほどとは異なる静けさであり、張りつめたものではなく、ただ動かぬ空気が沈んでいるような感覚であった。
やがて世子嬪が口を開く。
「最近、訪問が多うございます」
その声音には感情の揺れはなく、ただ事実をそのまま置いたような平坦さがあった。
責める意図も、問いかける意図もない。
ただ現状を示しただけである。
国舅は世子嬪の方を見ず、わずかに頷いた。
「そうか」
それ以上の言葉は続かない。
理由を問うこともなく、評価を述べることもない。
立ち上がり、静かに踵を返す。
そのまま迷いなく部屋を出ていった。
国舅の姿が消えたあと、室内には再び静けさが戻る。
茶はすでに冷え、菓子はそのままの形で残されている。
誰も手をつけなかったその状態が、その場で交わされたやり取りのすべてを物語っていた。
人の気配が消えた室内は、先ほどまでの緊張をわずかに残しながらも、静かに沈み込むような空気に包まれている。
その静けさの中へ、控えめな足音がゆっくりと近づいてきた。
ソヨンが、いつものように片付けのために入ってくる。
膳へ手を伸ばそうとした、その瞬間であった。
世子嬪が、わずかに手を上げてその動きを制する。
ソヨンは動きを止め、その場で姿勢を正したまま、次の指示を待つ。
「片付けは、まだしなくてよい」
淡々とした声音で告げられる。
続けて、指先が外へと向けられる。
「州羅宅を呼びなさい」
「それから・・・・、あなたは残りなさい」
命令は短く、余地は与えられない。
ソヨンは深く一礼し、無駄のない動きで扉の近くから世子嬪の方へ近づいた。
ほどなくして、州羅宅が姿を現す。
その佇まいには常に張りつめた気配があり、動きは控えめであるが視線だけは鋭く周囲を捉えている。
「人払いを」
世子嬪の一言で、控えていた者たちはすべて下がる。
室内に残されたのは、世子嬪、ソヨン、州羅宅の三人のみとなった。
世子嬪は軽く顎で示す。
「座りなさい」
茶菓子の膳の前に、州羅宅とソヨンは一瞬だけ躊躇を見せたが、すぐにその意図を理解し、静かに座を取った。
「食べなさい」
最初の辞退。
「恐れ多く存じます」
二度目の辞退。
「わたくしどもには過分にございます」
三度目の逡巡。
その瞬間、世子嬪の視線がわずかに冷えたものへと変わる。
言葉は発せられない。
ただ右手がゆっくりと持ち上げられ、指先が自らの首元を横切るように動かされる。
その仕草は静かであるにもかかわらず、明確な意味を持っていた。
続いて顎で、膳を指し示す。
それ以上の説明は不要であった。
二人は同時に理解し、ようやく菓子へと手を伸ばす。
世子嬪は自らの前に置かれた茶碗を取り上げ、茶だけを口に含む。
菓子には視線すら向けない。
(お祓いの前に出たものと同じ菓子だ)
胸の奥で、はっきりとした確信が生まれる。
この菓子は、あの時に出されたものと形も香りも一致している。
口にする理由はない。
嫌悪ではない。
恐怖でもない。
ただ、身体が拒絶している。
茶碗を静かに置き、世子嬪は州羅宅へと視線を向ける。
「近う」
州羅宅は一歩、さらに一歩と距離を詰める。
「唐順希の最近の動向を」
問いは短く、余計な前置きはない。
州羅宅は迷いなく口を開いた。
「唐順希様は、現在も側室候補のままでございます」
世子嬪の眉がわずかに動く。
「まだ?」
「はい。側室としての正式な許可は、大妃様と王妃様の双方より下りておりません」
「なぜそのままにしておく?」
「大妃様と国舅様のご意向と聞き及んでおります」
「二人の意向?」
「はい。唐順希様が側室となれば、唐氏の影響力が増します。お二方ともそれを望んでおられません」
「なぜ?」
「過去に遺恨があるようでございます」
州羅宅の声は静かでありながら、揺らぎがない。
「世子様と唐順希様が顔を合わせておられた件につきましても、入宮後はすべて偶然を装ったものでございます」
「偶然を装ったもの?」
「はい。あらかじめ取り決められた密会は存在しておりません」
わずかな間を置き、さらに続ける。
「世子様が相手をされていた理由は一つ、会話が成立する相手であったためでございます」
世子嬪は何も言わずに聞き続ける。
「お二人の仲が良いという噂は、唐側から流されたものと見て差し支えございません」
ソヨンがわずかに息を呑む。
州羅宅の言葉には迷いがなく、その視点はまるで宮中全体を俯瞰しているかのようであった。
(よく見ている)
世子嬪は内心で評価する。
州羅宅は単なる女官ではない。
見て、聞いて、記憶し、それらを繋げて生き残ってきた者である。
菓子を食べ終えた二人は、静かに手を引いた。
世子嬪は再び茶を口に含む。
菓子には最後まで触れなかった。
やがて室内に、再び静かな時間が流れ始める。
先ほどとは異なり、この沈黙には言葉にされなかった情報が積み重なり、重みを持って空間に沈んでいた。
州羅宅は、宮中の動きをほぼすべて把握している。
そう断じても差し支えないほどに、その視線は正確であった。




