第96話 測られる距離
世子が来たという知らせが届いたとき、世子嬪はわずかに呼吸を整え、その一瞬で内面の揺れを完全に押し込めた。
迎え入れ、定められた礼に従って上座へと促し、その動きには一切の迷いも余分もなく、ただ静かに整えられていた。
世子が着席したのを確認した後、女官が茶と菓子を運び込み、器の置かれる音までもが過不足なく調えられる。
その一連の所作は、見ている者に安心感すら与えるほど均整が取れており、感情の入り込む隙を一切残していなかった。
世子も世子嬪も何も話さない。
外の風の音が聞こえるだけだ。
二人の間にはただ沈黙の時間が流れる。
湯気の立つ茶の香りだけが、空間にゆるやかに広がり、二人の間にある距離を曖昧にしながら満たしていく。
世子は茶を一口含み、そのまま静かに器を置いた。
そのわずかな音が、合図であるかのように、言葉が続く。
「宮中では、すでに過去のこととして扱われている疫病だが・・・・」
声音は低く抑えられており、余計な意味を帯びぬよう、慎重に言葉が選ばれているのが分かる。
「発生した地域ごとに、症状が異なっていた」
世子は簡潔に整理していく。
「州羅では発熱と腹部の不調が主であり、呼吸にはほとんど影響が見られなかった」
「譲瓶では急な発熱と全身の倦怠感が中心であり、重症化する例は多くなかった」
世子はここまで話して、深く呼吸をする。
「だが鏡咸では、発熱、呼吸困難、腹部の違和感が同時に現れ、それが揃った場合の致死率が極めて高かった」
その声は静かであるが、明確な重みを持っていた。
「あの地こそが、真に警戒すべき疫病であったと見ている」
世子嬪は黙したまま聞いていた。
提示された情報だけで、頭の中ではすでに分類が終わっている。
(州羅は食あたりの系統、譲瓶は季節性の流行)
(そして鏡咸……あれは)
思考が一瞬、別の時代へと引き戻される。
(新型ナルコラに極めて近い)
だがその結論を外に出すことはできない。
「さらに」
世子は続ける。
「鏡咸では、その対策を広めた者がいた」
「隔離と塩を加えた湯冷ましに加え、ある薬草を用い、それを歌として広めたと聞く」
「名も素性も、いささか特徴的な人物であるようだが」
そこで言葉を止める。
これ以上踏み込めば、政治的な含みが強くなることを理解しているからであった。
世子嬪はわずかに間を取り、思考しているように見せる。
本当は聞きたいことがいくつも浮かんでいる。
(どこから発生したのか)
(もともと存在していたものなのか)
(外から持ち込まれたのか)
(それとも変異か)
だが、それを問うことはできない。
ここで踏み込めば、知りすぎているという違和感を与える。
ゆえに、言葉は選ばれる。
「どうして発生したのでしょうね?」
問いというより、独り言のように淡く置かれる言葉であった。
世子はわずかに目を伏せる。
発生源の特定は、この時代の手段では極めて困難であり、推測の域を出ることはない。
外からの流入か、土地に潜在していたものか、あるいは環境の変化によるものか。
いずれにしても、確定的な答えは得られない。
(特定は難しい)
思考はそこで留まり、結論のないまま沈んでいく。
沈黙が再び訪れる。
茶の湯気がゆるやかに消え、器の中の温度がわずかに下がった頃、世子嬪が口を開いた。
「ところで、最近よくおいでになりますね」
声音は穏やかであり、表情にも変化はない。
だがその言葉の奥には、明確な距離の提示が含まれていた。
実際の訪問回数が多いか少ないかは問題ではない。
問題は、偏りである。
唐順希のもとへは足を運ばず、こちらへばかり訪れる。
その事実が、余計な波を生む。
(あちらに行かず、こちらにばかり来る)
(それはそれで面倒だ)
嫉妬は理屈を超えて動く。
そして噂は、意図せずとも膨らむ。
(それに)
内心でわずかに肩をすくめる。
(世子なんかより、ソヨンや女官たちの話の方が有益だ)
それが正直な評価であった。
世子はその言葉に対して即答せず、代わりにわずかに身を乗り出した。
世子嬪の顔を、覗き込むように距離を詰める。
近い。
物理的な距離が、一歩分縮まる。
世子嬪は一切表情を変えず、静かに言葉を返す。
「お顔が近うございます」
声音は淡々としており、拒絶でも誘いでもなく、ただ事実をそのまま告げているだけであった。
世子はその言葉に、一瞬だけ動きを止める。
踏み込みすぎたのか、それとも試されたのか。
互いに距離の測り方を探っている。
その認識が共有されたまま、再び沈黙が落ちた。




