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鏡の王宮、眠る身体、動く身体 ーー体が動く間、別の名が呼ばれるーー  作者: 明日葉


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第95話 近づきすぎる距離

世子嬪の居所は、外の光を柔らかく取り込みながらも、余計な気配を一切感じさせぬ静けさに包まれていた。


障子越しに差し込む淡い光を眺めながら、世子嬪は小さく息を吐く。


州羅宅から、半刻後に世子が訪れるという連絡を受けていた。


(今日も来るのか)


率直な感想であり、飾りのない内心の声であった。


ここ最近、世子の訪問頻度は明らかに増えており、その動きは偶然と片付けるにはやや規則性を帯びているようにも見える。


政務の合間にふらりと立ち寄るような人物ではないことを知っているだけに、この変化には必ず理由があるはずであった。


(暇というわけでもあるまいに)


そう思いながらも、完全に無駄な訪問であるとは考えていなかった。


むしろ、あの男が足を運ぶ以上、そこには必ず何らかの意図があると見る方が自然である。


まだ時間に余裕があることを確認し、世子嬪は思考を切り替える。


州羅宅から得られる情報は、宮中における生存戦略を組み立てる上で極めて有用であり、単なる報告以上の価値を持っていた。


命を賭けて立ち回る者の視点は、表に出てくる整えられた言葉とはまるで違う輪郭を持っている。


誰が何を恐れ、誰に媚び、誰を切り捨てようとしているのか。


その流れが、何気ない言葉の端々から自然と浮かび上がってくる。


世子嬪は、頭の中で情報を整理していく。


民娥を警戒する勢力は、大きく三つに分けられる。


一つは、錦城家の直系に連なる者たちであり、血の近さゆえに最も警戒すべき存在であった。

表向きには「更生」を喜ぶ素振りを見せながら、その実、利用価値と排除の可否を冷静に測り続けている。


二つ目は、唐氏の周辺に集まる者たちであり、特に唐順希を中心とする一群は感情に左右されやすい傾向が強かった。

嫉妬と焦燥は理屈を待たずに刃となるため、最も不安定で読みづらい集団である。


三つ目は、中立を装う官僚層であり、立場こそ曖昧だが、噂を流す力においては最も影響力が大きい。

彼らは風向きを読み、強い側へと自然に寄るが、その過程で情報を歪めることに一切の躊躇がない。


州羅宅の報告は、驚くほど細部にわたり、記録に残されていない部分までを補っていた。


(使える)


心の底からそう判断する。


恐ろしげな雰囲気を纏う女官であるが、その本質は極めて冷静であり、敵に回す理由はどこにもない。


世子嬪は州羅宅を呼び寄せ、無言のまま茶菓子を差し出した。


それだけで意図は伝わる。


余計な言葉は不要であり、むしろそれを加えることの方が無駄であった。


「下がってよい」


短く告げる。


州羅宅は静かに頭を下げ、指示に従う。


去り際、世子嬪は一言だけ付け加えた。


「必ず毒味をしてから食べよ」


州羅宅は一瞬だけ目を伏せ、その意味を正確に受け取った上で、何も問わずに頷いた。


その反応を見て、世子嬪は内心で評価を一段引き上げる。


無駄に探らず、与えられた情報だけを正確に処理する。


それができる者は、宮中では貴重である。


州羅宅が下がって間もなく、控えの者が静かに告げた。


「世子様が、まもなくお見えになります」


(本当に来るのか・・・・)


(たまには、側室候補とやらのところにに行ってくれないと困るんだけどな)


心の中で呟く。


ここ最近の訪問頻度は明らかに過剰であり、偶然と見るには無理がある。


ただ、あの男は感情で動くような人物ではない。


であれば、この行動には必ず意図がある。


(まあ、こちらも手が空いている)


疫病の余波により、宮中全体が神経質になっている現状では、余計な動きを控える方が得策である。


奇行の噂は沈静化し、今の自分は静かな世子嬪として認識されている。


その裏で、密かに体を鍛えていることは、誰も知らない。


床の上で静かに行う腹筋、腕立て伏せという鍛錬は、音も気配も残さず、ただ確実に身体だけを整えていく。


この状況で顔を合わせておくことは、決して悪手ではない。


「通して」


短く命じる。


世子が来る。


ただそれだけのことのはずなのに、胸の奥でわずかな違和感が動く。


近い。


距離が、である。


政治的にも、物理的にも、互いの間隔はこれ以上詰めるべきではない位置にある。


深入りしないという暗黙の了解は、今のところ守られている。


しかし、この頻度が続けば、周囲の目は必ず向く。


それは双方にとって、面倒な事態を招く。


(さて、今日は何を聞きに来る)


思考を巡らせながら、姿勢を整える。


かつての暴れ女という仮面は、すでに不要となった。


今ここにいるのは、静かで、礼を外さず、常に距離を測る世子嬪である。


障子の向こうから、足音が近づいてくる。


世子嬪は、ほんのわずかに口角を上げた。


相手にしてやろう。


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