第94話 主導権を握る男、乱れる筆
尹怜は、筆を置いたまま、しばらく天井を睨み続けていた。
本来であれば、左副承旨の執務室とは、主の気質をそのまま映したように整い、余計な感情など入り込む隙のない場所である。
文机の上に置かれた筆の角度、文箱の向き、重ねられた書付の位置に至るまで、すべてが静かに揃えられているはずであった。
だが今、その静けさは保たれているように見えながら、実際には内側からきしみ、目には見えぬ乱れが空気そのものに滲み出ていた。
不届き千万。
無礼極まりない。
頭の中でその言葉を何度繰り返したのか、自分でも数えきれないほどであった。
白俊。
外科手術を行う医師一家白氏の末裔であり、鏡咸における疫病の流れを変えた医師。
そして今や、その本人は顔を見せぬまま、東宮殿を含む宮中全体の動きを間接的にかき回している。
「チッ、税金の無駄遣いをしやがって」
思わず口に出た声音には、自分でも驚くほど鋭い棘があった。
普段の尹怜を知る者がこの場にいたならば、間違いなく言葉を失っていただろう。
迎えの準備はすでに始まっている。
宿の手配、護衛の調整、到着後の対面の順序、逗留中に必要となる諸事の整理まで、来ると決まった以上は全て前もって整えておかねばならない。
だが肝心の本人は、必要なところだけを巧妙にぼかし、こちらが最も知りたい部分だけを涼しい顔で曖昧にしてくる。
いつ来るのか。
その問いに対して返ってきた文は、礼を欠いてはいないにもかかわらず、腹立たしいほど軽かった。
『四月ごろになると思います。到着十日前くらいに、また文を出します』
ごろ、とは何だ。
宮中の予定というものを、いったい何だと思っているのか。
こちらが期日を確かめようとすればするほど、相手はひらりと身をかわし、こちらが苛立てば苛立つほど、向こうの余裕ばかりが際立ってくる。
最初から最後まで、完全に主導権を握られていた。
「制御不能だな」
低く呟いた瞬間、机上に置かれた筆の穂先がかすかに揺れ、その震えが自分の内側の乱れそのものを示しているようで、さらに苛立ちが募る。
本来ならば、尹怜の書く文字は端正で静かであり、そこに感情の影が見えることはまずない。
読み手に不要な印象を与えず、書かれた内容だけを正確に伝えることこそが、官としての矜持であると彼は知っていた。
しかし今、机の上に広げられている文は、その平常から明らかに外れていた。
世子に宛てた報告文でありながら、そこに並ぶ文字は筆圧が強く、線は太く、整うはずの余白までもがどこか押し潰されたように歪んで見える。
丁寧に書こうとしていることは分かる。
だが、その丁寧さの上から、抑え切れぬ感情が無理やり重ねられていた。
『白俊、来訪予定は四月ごろとのこと。
正確な日程は未定。
到着十日前に改めて連絡すると申しております。
当面、迎えの準備と調整に追われるため、しばらく東宮殿へは伺えません』
書き終えたところで、尹怜は筆を置き、深く息を吐いた。
乱れている。
その自覚がはっきりあるからこそ、なおさら腹立たしい。
だが今は、これ以上取り繕う余裕がなかった。
実際のところ、仕事が片付かないのである。
白俊という不確定要素が、すでに組まれていた予定の上を平然と踏み潰し、こちらに調整という名の後始末だけを押し付けている。
文を乾かし、封をし、封蝋を押す。
その一連の動作ですら、普段よりわずかに速く、普段よりわずかに強く、本人にしか分からぬ程度の雑さが滲んでいた。
「失礼いたします」
そう呟いたのは、誰かに向けての言葉ではなかった。
これは、冷静であるべき場で乱れをさらした自分自身に対して向けた、かろうじて形を保った叱責であった。
文を受け取る前、世子は内官を呼び半刻後に世子嬪のところに行くとちょうど伝えていたところだった。
その文を受け取った世子は、目を通すより先に、まず封に違和を覚えた。
そして紙面を見た時思わず声を漏らした。
「これは・・・・」
思わず漏れた声は、ごく小さなものであったが、そこには明確な驚きが含まれていた。
内容よりも先に目に入ったのは、文字の荒れである。
平常の尹怜が書く字ではない。
線は荒く、払いには余裕がなく、抑え込んだ感情が紙の上に滲み出ている。
「相当だな」
世子は、わずかに口元を緩めた。
あの尹怜がここまで乱れるのだとすれば、白俊という男の異常さは、もはや説明を要しない。
「しばらく来られない、か」
文を机に置き、背もたれへ体を預けながら、世子は静かに思案する。
時間はまだある。
鏡咸の本命たる報告が届くまでには、なお幾ばくかの猶予が残されている。
ならば、その時間を無為に過ごす必要はない。
世子は、ゆっくりと立ち上がった。
「世子嬪のところへ行くか」
疫病の話から始まったこの一連の流れの中で、なぜかあの女人の言葉が、絡まりかけた思考の糸をほどくきっかけになることが幾度かあった。
理由はまだ分からない。
だが、今はそれで十分だった。
乱れた文を机に残したまま、世子は東宮殿を後にする。
その背後には、次に訪れるであろう嵐の気配が、すでに静かに忍び寄っていた。




