第93話 返書の意図、反則の正体
尹怜の執務室は、いつもであれば静謐そのものと評される空間であり、外界の雑音や人の感情が入り込む余地を許さぬ構造を保っていた。
几帳面に整えられた文机、筆の位置、文箱の向きに至るまでが厳密に揃えられ、そこには主の思考と同じく一切の乱れが存在しないはずであった。
しかし今、その整然とした空間には、目に見えぬ形でひびが入り、静けさそのものがわずかに歪んでいるような気配が漂っていた。
世子と弘文館校理である朴紘範は、執務室の奥へと歩を進め、机の上に並べられた三通の文を見下ろしている。
その向こう側では、尹怜が腕を組んだまま立ち尽くし、微動だにせぬ姿でその場で固まっていた。
「これが、例の三通か」
世子が低く言う。
「はい、いずれも白俊からの返書でございます」
答える尹怜の声は平静を保っているが、わずかな硬さが混じり、その均衡が完全ではないことを示していた。
朴紘範は一通目を手に取り、内容を声に出して読み上げる。
「『今は胃腸を整える薬草の収穫時期で忙しい』以上、です」
その文面はあまりにも簡潔であり、敬意は最低限にとどまり、理由は一行で終わり、余白すら意図的に削ぎ落とされた印象を与える。
「忙しいで終わりか」
世子がわずかに口元を歪める。
「普通であれば、せめて次の機会を示す一文は添えるものだ」
「添えられておりません、完全に断っております」
尹怜の返答は即座であり、その速さが逆に内心の動きを示していた。
朴紘範は二通目を手に取り、続けて読み進める。
「『別件で立て込んでいる』以上、ですか」
「以上です」
「理由はそれだけか?」
「はい」
朴紘範は文を机に戻し、世子の方へ視線を向ける。
「二度目の断りとしては、かなり簡略ですね」
「簡略というより慣れている」
世子は淡々と述べる。
「断りに慣れている者の書き方だ、相手の立場を理解した上で、それでも来ない」
尹怜は無言でその言葉を受け止め、否定の余地がないことを理解していた。
「そして問題は三通目ですね」
朴紘範は最後の文を持ち上げる。
その紙は他の二通と比べてわずかに厚く、筆圧も強く、どこか書き手の自由さがにじんでいる。
「読みます」
軽く息を整え、声に出す。
「『三度も文をいただいては、こちらの面目が立たぬ、用が済み次第、陽漢に入る』」
ここまでは整った返答であった。
しかし、その続きが問題であった。
「『ただし、急ぎではないでしょう、人は待つ間に考えが深まるものです、私も考えをまとめてから参ります』」
室内に気まずいが流れる。
「反則だな」
世子がぽつりと呟く。
朴紘範は堪えきれず、わずかに笑いを漏らした。
「これはずるい、断っておきながら最後に主導権を握っています」
「しかも考えが深まるときた」
世子は額に手を当てる。
「こちらの焦りを見透かしているようだ」
尹怜は依然として沈黙を保っていたが、そのこめかみがわずかに引きつっているのが見て取れる。
怒りを抑えて、言葉を飲み込んでいるかのようだった。
朴紘範が文の下段に目を動かした。
「追伸がございます」
「追伸?」
世子が身を乗り出す。
朴紘範はすでに笑いを抑えきれなくなっていた。
「『追伸、陽漢は久しぶりなので甘い菓子があれば嬉しい、胃に優しいものだと、なお良し』」
誰もが言葉を失った。
そして・・・・
こともあろうに、朴紘範が完全に崩れた。
「これは・・・・何者ですか」
世子も口元を押さえ、肩を震わせる。
「呼びつけられておいて、菓子の注文とは」
「しかも胃に優しい指定付きです」
朴紘範は笑い涙を拭いながら言う。
「完全に場を掌握する気で書いていますね」
ようやく尹怜が口を開く。
「三通とも、こちらの立場を理解した上で書かれております」
その声は低く静かであるが、抑えている感情が確かに存在していた。
「無礼ではない、礼は尽くしている、だがこちらの思惑を見抜いた上で主導権を取っている」
「つまり」
世子が続ける。
「最初から来る気だったということか」
「はい」
尹怜は頷く。
「二度断り、三度目で応じることで恩を作る、しかも待たされた印象だけを残す」
朴紘範は息を吐く。
「反則ですね」
「うむ」
世子も同意する。
「敵であれば厄介、味方でも扱いにくい、だが」
視線を上げる。
「それだけの価値がある」
尹怜は机の前の椅子に腰掛けていたが、身体は正面を向かずわずかに横へ流れ、左手だけが机の上に置かれていた。
その指先は整った間隔で静かに机を叩き続けており、一定の律動だけが辛うじて保たれている理性の形として残っていた。
なぜこれほどまでに感情を揺さぶられているのか、その理由を自らも完全には言語化できず、その曖昧さがさらに内面を掻
き乱していた。
本来であれば切り離せるはずの感情が制御の外に出かかっていることを理解しており、その事実そのものが新たな苛立ちを生んでいた。
「次は直接対面です」
その言葉にはすでに揺らぎはなく、再び整えられた冷静さが戻っている。
ただし、その奥に残る微かな熱までは、完全には消えていなかった。




