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鏡の王宮、眠る身体、動く身体 ーー体が動く間、別の名が呼ばれるーー  作者: 明日葉


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第92話 呼び寄せる者

「一度、話を聞く機会を設けてみますか」


静まり返った室内で最初に口を開いたのは、左副承旨である尹怜であった。


その言葉遣いはいつもと変わらず丁寧であり、声音も落ち着いているが、その問いにはすでに結論へ向かう意志が含まれていた。


世子はわずかに考える素振りを見せたのち、迷うことなく答えを返す。


「左副承旨が会うといい」


即答であった。


尹怜は一瞬だけ目を伏せ、それからわずかに苦笑を浮かべる。


その表情は、予想していた答えがそのまま返ってきたことを受け入れているものであった。


一方で、弘文館校理である朴紘範は何も言葉を発さなかったが、その沈黙の裏では明確な思考があった。


(自分でなくて、本当によかった)


白俊という医師は、記録を読み、報告を聞くほどに、その人物の癖の強さが浮き彫りになる存在であった。


誰が相手をしても骨が折れることは明らかであり、それを引き受けるのが尹怜であることは妥当であると同時に、気の毒でもあった。


「では、鏡咸金氏を通じて文を出します」


尹怜は淡々と言い、その時点ですでに頭の中では文面の構成が組み上がり始めている。


最初の文は形式、内容ともに隙がなく、敬意を欠かず、要件も簡潔で、相手に余計な圧を与えないよう慎重に整えられていた。


返事は思いのほか早く届いた。


"今は胃腸を整える薬草の収穫時期で忙しい"


それだけであった。


尹怜は文を読み終え、しばらく無言のまま机の上に置く。


(断られたな・・・・)


理由としては自然であり、季節とも矛盾しない。


だが、その文にはどこか軽さがあり、重みが感じられなかった。


二通目の文はさらに慎重に整えられた。


時期を改める提案や日程の幅を持たせる工夫、さらには陽漢に来ることが難しい場合には近郊でも構わないという配慮が加えられ、相手に主導権を委ねる形を取っている。


しかし返事は再び簡潔であった。


"別件で立て込んでいる"


それだけであった。


尹怜は文を読み終えたまま、しばらく指先で紙の端を強く押さえ続け、その力の入り方が普段とは明らかに異なっていた。


呼吸を整えようとしているにもかかわらず、わずかに浅くなっているのが自分でも分かり、その状態にさらに苛立ちが重なる。


文を畳む動作一つをとっても、整っているはずの所作に微かな乱れが混じり、内に抑えた感情がにじみ出ていた。


(三度目で決める)


三通目の文は、余計な装飾を削ぎ落とし、敬意を保ちながらも要件のみを明確に記したものとなった。


会って話がしたいという一点だけを、簡潔に伝える。


数日後、ようやく返事が届く。


「三度も文をいただいては無下にもできぬ、用が済み次第、陽漢に入る」


短いながらも、明確な了承であった。


その文を読んだ瞬間、尹怜の内側で張り詰めていたものがわずかに軋む。


文を置く音が、普段よりもわずかに強く響き、その違いは誰が見ても明らかであった。


整っているはずの呼吸は乱れ、無意識に何度も息を吐き直す様子が続き、その場に落ち着きがない。


視線が机の上を行き来し、同じ箇所を何度も見返す動きが繰り返され、その集中の仕方は普段とは明らかに異なっていた。


「最初から来る気はあっただろう」


低く抑えた声で呟くが、その声音には明確な感情の揺れが含まれていた。


その様子を、少し離れたところから見ている者が二人いた。


世子と朴紘範である。


「あれが、左副承旨か」


世子は声を抑えながら、肩の震えを必死に抑えていた。


その隣で朴紘範は、普段の尹怜とのあまりの違いに目を見開き、言葉を失っていた。


文を手にし、珍しく眉を寄せながら感情をにじませる尹怜の姿は、普段の姿を知る者にとっては強い印象を与えるものであった。


二人は顔を見合わせたのち、静かに足を進め、尹怜の机の近くへと歩み寄る。


机の上に置かれた文へと視線を落とした瞬間、朴紘範は耐えきれず息を漏らした。


「失礼ながら、これは・・・・」


笑いを抑えようとするが、完全には抑えきれない。


世子もまた口元を押さえながら耐える。


「これは、反則だな」


二人が何を見ているのか、尹怜は気づいていない。

そもそも二人が近くに来たことすら気づいていない。


なぜここまで感情を乱されているのか、自分でも理由を整理しきれず、その曖昧さがさらに苛立ちを増幅させていた。


普段であれば切り離せるはずの感情が制御しきれず、冷静であるべき自分の在り方からわずかに逸れていることを、はっきりと自覚している。


尹怜は机の前の椅子に腰を掛けているが、身体は正面を向かずわずかに横へ流れていた。


そして彼の左手だけが机の上に置かれていた。


その指先は整然とした一定の間隔を刻みながら、静かに机を叩き続けている。

その規則正しさだけが、かろうじて保たれている理性の名残のように響いていた。


(この医師・・・・)


(会えば、さらに厄介な相手だろう)


そう思いながらも、その奥底にはわずかな期待が生まれている。


しかしその感情を、まだ認めることはなかった。

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