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鏡の王宮、眠る身体、動く身体 ーー体が動く間、別の名が呼ばれるーー  作者: 明日葉


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第91話 広がるものの正体

茶を飲む習慣を持たぬ者たち、すなわち良人以下の身分に属し、日々の糧を得ることで精一杯である人々においても、感染しながら回復した例が確認されていた。


それは単なる例外ではなく、一定数存在する傾向として記録されており、この事実こそが今回の調査において決定的な意味を持っていた。


尹怜の報告は、それまでのように事実を順に積み上げるものとは異なり、まるで一つの流れを辿るかのような語り口へと変わっていた。


「茶を飲むこと自体が難しい層でも、回復例が多数確認されています」


世子はその言葉を受け止め、ゆっくりと顔を上げる。


「どうやって」


「飲んでいない者もいます。

 代わりに、持っていました」


「持っていた?」


「はい。肌身離さず」


尹怜は一瞬だけ言葉を選ぶように間を置き、その意味を正確に伝えるように続けた。


「速効葉を、です」


再びその名が出る。


しかし先ほどとは異なり、この場にいる誰もがその名を軽んじることはなかった。


「発端は、子供向けの歌でした」


その一言に、場の空気がわずかに揺れる。


「歌?」


世子が短く返す。


「はい。『キイトル キイトル キイトルソウ』という、非常に軽い出だしのものです」


朴紘範がわずかに息を吐く。


「本当に、軽いですね」


「軽すぎるほどです」


尹怜は淡々と続ける。


「内容は単純です」


“キイトル キイトル キイトルソウ

 にがいけど まあええやろ

 のんで ねて またのんで

 気ぃついたら 元気やで


 熱でも ゴホゴホでも

 とりあえず いっとこか

 ソッコウバや 言うてるし

 効いたらついてる ええやろな”


覚えやすく、繰り返しやすく、意味が直感的に理解できる構成であった。


子供向けであるがゆえに、理屈を必要とせず、そのまま受け入れられる形になっている。


「誰が作った歌なのかは不明です」


「だが、広まった」


世子が静かに言う。


「はい。子供たちが歌い、それを聞いた親が覚え、

 気づけば大人たちも口ずさむようになっていました」


茶を飲めぬ者もいる。


隔離という概念を理解できぬ者もいる。


しかし歌であれば、誰にでも届く。


命令ではなく、脅しでもなく、理屈でもなく、ただの遊びとして広がる。


「歌の通りに、草を懐に入れる者が増えました」


尹怜は静かに続ける。


「市場で売る者が現れ、道端で摘んで分け与える者もいたそうです。価値があるかどうかを考える者はおりませんでした」


ただ持ち、ただ信じた。

それだけの行為が、結果として広がっていく。


「感染した者は、歌の通りに草を口にしました。煎じる者もいれば、乾燥させてそのまま噛む者もいたとのことです」


方法は統一されていない。


だが、それは問題ではなかった。


結果だけが残る。


「気がつけば、感染者は減り、死者は出なくなり、疫病は収束していました」


沈黙が落ちる。

長く、重い沈黙。

世子は指先を組んだまま動かず、その場に留まり続ける。


(隔離でもない)


(塩を加えた湯冷ましでもない)


(薬として認識されたわけでもない)


歌。

子供の遊び。

名ばかりの薬草。


それらが人を救った。


「誰も、止めなかったのか?」


世子が低く問う。


「止める理由がなかったのでしょう」


尹怜は即答する。


「誰もが必死でした

 笑えるものにすがる必要があった

 信じられる形が求められていたのです」


朴紘範が小さく呟く。


「理にかなっていないのに」


「ええ」


尹怜は頷く。


「理屈では説明しきれません。しかし、現実としてそうなりました」


世子は目を伏せる。


医師としての記憶が、静かに浮かび上がる。

徳永義秀として積み重ねた知識が、思考の奥で反応する。


(予防でも治療でもない)


(だが、人の行動を変えた)


それこそが、最も大きな効果だったのかもしれない。


「疫病は、恐怖で広がる」


世子は静かに呟く。


「そして、安心で止まる」


速効葉。

軽すぎる名。

ふざけた歌。

子供じみた信仰。


だがそれは確かに人々の行動を変え、外出を減らし、人と人との接触を遠ざけ、生き延びる結果へと繋がった。


理ではなく、権威でもなく、物語として。


世子は静かに目を開ける。


「次に来る疫病は、同じとは限らぬ」


誰も否定しない。


「だが」


世子の声は低く、確かな重みを持っていた。


「人がどう動くか、その視点は忘れてはならぬ」


速効葉の歌は、もはや誰も口にしていない。


それでも、その余韻だけが、この場に確かに残っていた。

三人の会合は、静かに、しかし確実に続いていた。

場所は変わらず、朴紘範の私邸の奥にある書斎であり、外から見れば文人が夜更けに集い語らう場にしか見えないよう整えられている。


しかし卓の上に並ぶ文書の量と質、そして三人の間に流れる沈黙の重さは、それが単なる談笑の場ではないことを明確に示していた。


世子、弘文館校理である朴紘範、左副承旨である尹怜。


疫病そのものはすでに収束しているにもかかわらず、この会合は終わる気配を見せず、むしろ核心へと近づいている。


「鏡咸金氏の件だが」


世子が静かに口を開く。


「当主を診た医師の素性は、どこまで分かっている」


その問いを待っていたかのように、尹怜が一歩前に出る。


「すでに明らかになっております」


声は低く抑えられているが、その内容は軽くない。


「名は白俊です」


朴紘範の指がわずかに止まる。


「白氏ですか」


「はい、かつて王の身体に刃を入れ、命を救った一族の末裔のようです」


その意味は、この場にいる三人すべてが理解していた。


王の身体に刃を入れるという行為は、本来許されるものではなく、一歩誤れば一族ごと消えかねない危険を伴う。


それを成し遂げ、なお血筋を残しているという事実自体が、すでに異質である。


「国中を巡り、薬草を探し、山に入り、野に寝る医師がいるという話は聞いたことがある」


世子が低く言う。


「だが外科の技まで持つとなると、話は別だ」


「ええ」


尹怜は静かに頷く。


「医官でもなく、どこにも属さず、流れるように各地を巡っておりますが、単なる民間医ではありません」


室内を沈黙が支配する。


この医師は制度の外にいながら、その核心に触れる技を持っている。


権力に属さず、それでいて血筋は王権と繋がっているという矛盾した存在であった。


「問題は」


朴紘範がようやく口を開く。


「この医師が疫病の対処を見出したのが、偶然なのかという点です」


世子は視線を上げる。


「それとも最初から知っていたのか」


その言葉によって、場の空気がさらに重くなる。


偶然であれば幸運に過ぎない。


だが知識として持っていたのであれば、その意味はまったく異なる。


「隔離、塩を加えた湯冷まし、薬草」


朴紘範は指を折りながら整理する。


「いずれも単独では決定打にはなり得ないが、組み合わせと広め方があまりにも巧妙です」


「特に」


尹怜が続ける。


「対処を命としてではなく、歌として広めた点です」


三人とも、その点に引っかかりを覚えていた。


恐怖を煽ることなく、罰を示すこともなく、理屈を押し付けることもない。


遊びの形を取りながら、人の行動を変えている。


「蔓延を防ぐための対処を、面白く広める」


世子がゆっくりと言う。


「その発想は医師というより、語り手に近い」


朴紘範はわずかに口元を緩める。


「正直に言えば、あの草の名と歌を聞いたとき、最初に浮かんだのは軽すぎるという印象でした」


「同感です」


尹怜もわずかに表情を緩める。


「強烈すぎて忘れようがなく、良くも悪くも頭に残る」


それが意図されたものなのか、それとも単なる性質なのかは分からない。


「偶然にしては出来すぎている」


世子は断じる。


「だが意図的であるならば、なぜ宮廷に報告しない?」


白俊は功績として名を上げることもできたはずであり、医官として取り立てられる道もあった。


それを選んでいない。


「権力を嫌っている可能性があります」


尹怜が答える。


「あるいは権力に組み込まれた瞬間に、できなくなることがあると知っているのかもしれません」


世子は静かに息を吐く。


過去の記憶が、脳裏をかすめる。


正しさが人を縛り、制度がかえって命を救えなかった経験。


「この医師は」


世子は言う。


「救うために軽く振る舞ったのか、それとも軽さゆえに救えたのか」


答えはまだ出ない。


ただ一つ確かなことがある。

白俊という存在は、この国にとって無視できない異質な存在であるということだけであった。


夜はさらに深まる。


だが三人の思考は、止まる気配を見せていなかった。

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