第86話 駆け引きと疫病の記憶
ソヨンを呼び、膳を下げるように指示した、その直後だった。
「世子様がお見えになります」
控えめな声で告げられ、世子嬪は一瞬だけ思考を止めた。
外の光が、わずかに揺れる。
戸の向こうで控えていた気配が、ひとつ静かに動いた。
世子嬪は、その一言を聞いたまま、何も言わずに呼吸を整える。
(はて・・・・、一体何をしに?)
反射的にそう考えてから、ほんのわずかな間を置き、自分の思考に小さく息を吐いた。
(ああ、そうか。夫婦だったな)
その事実は、理解しているはずでありながら、どこか現実として馴染まない。
形式としては確かに成立している関係であるにもかかわらず、実感だけが欠けている。
床に落ちる光の形が、ゆっくりと伸びていく。
風が弱く戸を揺らし、空気がわずかに動いた。
「通して」
短く告げると、ソヨンはすぐに動き、静かに戸を開ける。
そのまま茶の準備を整え、何も言わずに下がっていった。
この部屋に残るのは、世子嬪と、これから入ってくる世子だけになる。
やがて、足音が近づく。
重くも軽くもない、一定の調子を保った歩み。
世子が入ってくる。
世子嬪は立ち上がり、迎え入れる所作だけを正確に整えた。
余計な感情は乗せない。
それはすでに身体に染みついた動きだった。
「世子様」
軽く頭を下げ、そのまま自然に下座へと退く。
上座は空けられており、迷いはない。
世子はその動きを一瞬だけ見てから、何も言わずに上座へ座る。
その所作には無駄がなく、音もほとんど立たない。
部屋の中の空気が、わずかに引き締まる。
が、圧があるわけでもなく、自然な雰囲気だ。
しばらくして、茶と菓子が運ばれてくる。
置かれた器からは、まだ淡く湯気が立ち上っている。
整えられた配置。
歪みのない形。
それは、この場所がどれほど整えられた世界であるかを示していた。
しかし。
会話はない。
世子は茶碗を取り、一口飲む。
世子嬪も、それに倣う。
ただ、それだけの動作が繰り返される。
視線は交わらない。
言葉も交わらない。
同じ空間に二人が存在しているだけの時間が、静かに流れていく。
(相変わらずだな)
世子嬪は、心の中でそう呟いた。
初夜の晩と、何も変わらない。
いや、変わらないことを互いに確認しているような、奇妙な時間だった。
外では、風が枝を揺らす音がかすかに聞こえる。
遠くの足音が、一瞬だけ近づいては消える。
それらすべてが、この部屋の沈黙を際立たせていた。
世子は茶を飲み終え、わずかに視線を落とす。
何かを考えている様子だが、その中身は表に出ない。
疫病のことか。
それとも、目の前に座る、形式上の妻のことか。
世子嬪は、そのどれも考えないことにした。
考えても答えは出ない。
出たとしても、それが正しい保証はない。
そして今、この場では、その答えに意味がない。
茶の湯気が、少しずつ薄れていく。
温度が下がり始めているのが、指先に伝わる。
世子嬪は茶碗を持ったまま、わずかに視線を落とした。
いい香りがする。
高級なお茶なのであろう。
時間が、ゆっくりと積み重なっていく。
世子の指先が、茶碗の縁に触れたまま止まる。
その静止すら、音のない動きとしてこの空間に溶け込んでいた。
世子嬪は、そのわずかな変化を感じ取りながらも、何も言わない。
(まさか腕立て伏せをやらせたことの文句を言いに来たのか)
ふと、そんな考えが浮かぶ。
(それにしては遅すぎるだろう)
自分でも、突拍子もない発想だと思う。
だが、この沈黙の中では、そうした思考すら浮かんでは消えていく。
外の光が少し傾き、床に映る影の形が変わる。
時間だけが確実に進んでいる。
世子は、わずかに息を吐いた。
その音はほとんど聞こえないほど小さい。
世子嬪は、その気配を感じ取る。
しかし顔は上げない。
この距離。
この沈黙。
互いに踏み込まないことを選んでいる。
それは拒絶ではなく、均衡の維持に近い。
不用意に一歩踏み込めば、この静けさは簡単に崩れる。
だから、動かない。
世子嬪は茶碗をそっと置いた。
わずかな音が、静寂の中に落ちる。
それでも、何も変わらない。
世子もまた、同じように茶を置く。
言葉は、ない。
ただ、同じ動作が繰り返される。
それが、この場における会話の代わりであるかのように。
夫婦としての訪問。
夫婦としての同席。
夫婦としての沈黙。
そのすべてが、形だけのものであることを、二人とも理解している。
だからこそ、この時間は続く。
破る理由もなく、続ける意味もないまま。
世子嬪は、再び目を伏せた。
茶の温度は、さらに下がっている。
湯気はもう、ほとんど見えない。
それでも誰も、新しい茶を求めない。
このまま、冷えていくのを待つだけ。
その過程すら、受け入れている。
沈黙は、途切れない。
ただ、そこにある。
世子嬪は、その中で静かに呼吸を整えた。
この沈黙もまた、意図して保たれているものだと理解している。
無言であることが、最も安全な選択である場合もある。
そして今が、まさにそれだった。
外の風が、再び戸を揺らす。
かすかな音が、遠くで消える。
部屋の中には、二人だけがいる。
それ以上でも、それ以下でもない。
世子嬪は、ただ時が過ぎるのを待っていた。
この沈黙もまた、演技の一部なのだと、自分に言い聞かせながら。
先に沈黙を破ったのは、世子だった。
「疫病について、どう思う」
唐突ではあったが、声音は静かで、相手の反応を測るような色を含んでいた。
世子嬪はすぐには答えず、わずかに呼吸を整える。
茶碗の中で揺れる液面を見つめ、その波紋が消えるのを待つように、短い間を置いた。
あらかじめ用意してあった言葉を、ゆっくりと選び取る。
「塩を加えた湯冷ましの補給と、徹底した隔離で収束したと聞いております。良かったことだと思います」
それ以上でも、それ以下でもない。
世子嬪として、余計な踏み込みは避けるべきであり、これが最も無難な答えだった。
だが世子は、すぐには頷かなかった。
「本当に、その二つだけで収束したと思うか?」
問いは静かだが、先ほどよりも一歩踏み込んでいる。
世子嬪の視線が、ほんのわずかに揺れる。
「何か、不思議だとは思わぬか?」
逃げ場を残さぬ、柔らかな圧。
(来た・・・・)
世子嬪は内心で息を吸う。
不思議かと問われれば、答えは明白だった。
高熱。
息をするたびに胸が焼けるような苦しさ。
腹部に走る鈍い痛みと、体力を奪う下し。
そして、ある日を境に訪れる分岐。
五日めに熱が下がり始める者と、そうならぬ者。
八日めにようやく熱が落ち着き、九日めに体を起こせるようになる者。
十日めには一見普通に戻るが、咳だけがしつこく残り続ける。
だが、その過程に至る前に、息が続かず、静かに命を落とす者もいた。
その光景を、世子嬪は知っている。
遠い記憶ではない。
白い布で覆われた顔。
息を求めて肩を上下させる人々。
冷たくなっていく手を握ることしかできなかった時間。
薬はあったが、効くとは限らなかった。
知識はあったが、足りなかった。
準備はあったが、間に合わなかった。
あのときは、すべてが遅かった。
(塩と隔離だけで抑え込める・・・・?)
あり得ない、と即座に否定できる。
あの病は、もっと執拗で、もっと不確かで、もっと人の手をすり抜けるものだった。
感染した者の中でも、回復の過程は似通っているようでいて、細部は決して同じではなかった。
ある者は五日めに熱が下がり、ある者は七日めまで高熱に苦しみ続ける。
咳が収まるまでの時間も、息苦しさの残り方も、人によって異なる。
そして何より、突然悪化する瞬間がある。
それが恐ろしかった。
順調に回復しているように見えていた者が、ある日を境に息が乱れ、短い時間で取り返しのつかない状態へ落ちていく。
そうした例を、世子嬪は何度も見てきた。
(それなのに)
塩を加えた湯冷ましと隔離だけで収まったという報告。
あまりにも整いすぎている。
あまりにも都合がよすぎる。
(それだけでは弱すぎる)
それが率直な感覚だった。
だが。。。。
(言えるわけがない)
この男に。
世子という立場にある者に。
ここで語れば、それはただの意見では済まない。
知っている理由を問われる。
なぜそこまで確信を持てるのかと問われる。
そして、その問いに正しく答えることはできない。
(なぜ私に聞く?)
世子嬪は内心でそう呟きながらも、表情は一切崩さない。
考えているように見せる。
だが考えを外へ出さない。
その境界を、丁寧に保つ。
再び沈黙の時間が流れる。
茶の表面に、わずかな揺れが残る。
外から入り込んだ風が、戸をかすかに鳴らす。
世子は世子嬪を見ている。
だが、急かす様子はない。
待っている。
(試している)
その感覚は、はっきりとあった。
どこまで踏み込むか。
どこで止まるか。
それを見ている。
世子嬪は、ゆっくりと息を整える。
ここで不用意に踏み込めば、境界を越える。
だが、完全に逃げれば、それもまた不自然になる。
均衡を保つ必要がある。
やがて、世子嬪は静かに口を開いた。
「不思議だとお思いなのであれば・・・・」
一度、言葉を切る。
断定はしない。
決めつけもしない。
「調べてみるという方法も、あるのかもしれません」
それだけを置いて、口を閉じる。
答えではない。
提案でもない。
ただ、選択肢を示しただけ。
世子の眉が、わずかに動いた。
世子嬪はその変化を見逃さない。
だが、何も言わない。
これ以上は踏み込まない。
踏み込めば、線を越える。
(これで十分だ)
そう判断する。
不思議だと感じているのは、あなただけではない。
だが、それを言葉にする役目は、自分ではない。
再び、沈黙の時が流れる。
しかし先ほどとは違う。
そこには確かに、考えが存在していた。
世子は視線を落とし、何かを整理しているように見える。
世子嬪は目を伏せたまま、その気配だけを感じ取る。
茶はすでにぬるくなり、湯気は消えている。
それでも、誰も新しい茶を求めない。
この場に必要なのは、温かさではなく、静けさだった。
世子嬪は、心の奥で静かに結論づける。
(やはり、この人も気づいている)
完全ではないにせよ、違和は掴んでいる。
それがどこへ向かうのか。
何を動かすのか。
まだ分からない。
それを判断するには、もう少し時間が必要だった。




