第87話 気づきの先にあるもの
世子は世子嬪に短く礼を述べ、深く踏み込むことなくその居所を後にした。
言葉は丁寧だったが、その意識はすでに別の場所へと向かっている。
足を外へ踏み出した瞬間から、思考は東宮殿へと先行していた。
外気はわずかに冷え、頬を撫でる風が思考を引き締める。
敷石の上を進む足取りは自然と速くなり、衣の裾がかすかに揺れる。
(なぜ、気がつかなかった)
自問が胸の奥に落ちる。
一歩進むごとに、その重みは増していく。
疫病。
高熱と呼吸の苦しさ。
腹部の異常。
そして一定の経過を辿る回復、あるいは死。
症状の一致は、これまで何度も頭の中で反芻してきた。
隔離と塩を加えた湯冷ましのみで収まったという報告。
それもまた、何度も読み返している。
考えていなかったわけではない。
むしろ、考え続けていた。
考えすぎるほどに。
(ひとりで解決しようと、焦りすぎたか)
足音が、わずかに強く石を打つ。
医師としての癖が、抜けていなかった。
目の前の患者。
目の前の病。
自分が見て、自分が考え、自分が判断し、自分が動く。
それが当たり前だった。
だが。
(今ここでは、医師ではない)
戸の前で一瞬だけ足を緩め、息を整える。
(この国の世子だ)
肩書きは、役割を変える。
考えることは、変わらない。
だが、動き方は変えなければならない。
戸をくぐり、東宮殿へ入る。
中は静かで、整えられた空気が満ちている。
(考えるのは私でいい)
だが。
(動くのは、私でなくていい)
この立場には、それが許されている。
いや、それを使わねばならない。
人を動かし、調べさせ、確かめさせる。
それが、この位置にある者の責務だ。
(よりによって)
脳裏に浮かぶのは、先ほどまで対面していた世子嬪の姿。
政敵の娘。
政略で結ばれた関係。
それ以上でも、それ以下でもないはずの存在。
(その女から気づきを得るとは)
口元が、わずかに歪む。
皮肉とも、感嘆ともつかない感情。
しかしそれを否定する理由はない。
事実は事実として受け入れる。
世子はすぐに内官へ命じた。
「弘文館校理と左副承旨呼べ」
声は低く、無駄がない。
控えていた者がすぐに動き、命は外へと伝えられる。
しばしの後、二人は揃って姿を現した。
朴紘範はいつも通り整った姿勢で、感情を表に出さない。
尹怜もまた落ち着いているが、その視線の奥にはわずかな警戒が見える。
急な呼び出しの意図を測りかねているのだろう。
世子は座を勧めない。
そのまま、正面から口を開く。
「疫病の件だ」
その一言で、空気が変わる。
二人の背筋がわずかに伸びる。
「すでに収束したとの報告は受けている」
世子はゆっくりと視線を巡らせる。
「北西部の鏡咸、譲瓶、南部の州羅」
一つずつ、確認するように言葉を置く。
「いずれも同様の対策で抑え込めたとある」
短い間ではあるが、静まりかえる。
「だが」
声がわずかに低くなる。
「本当に、塩を加えた湯冷ましと隔離だけだと思うか」
その問いは単純でありながら、逃げ場がない。
二人はすぐに答えない。
ただ時間だけが過ぎていく。
世子は視線を逸らさない。
「忖度はいらぬ」
さらに一歩踏み込む。
「聞きたいのは報告書の内容ではない」
「お前たち自身の考えだ」
朴紘範の唇が、わずかに引き結ばれる。
尹怜は一度だけ目を伏せ、すぐに上げた。
その動きは一瞬だが、迷いがあった証だった。
世子は、それを見逃さない。
「正直に答えよ」
声は静かだが、圧は明確だった。
「高熱、呼吸の苦しさ、腹部の激痛、その後の高い致死率」
一つ一つ、言葉を積み上げる。
「この症状で、あの二つだけで本当に十分なのか?」
再び沈黙の時が流れる。
二人の間に、短い視線のやり取りが交わされる。
それは一瞬だったが、十分だった。
世子の中で、確信が形になる。
(やはり)
自分だけではない。
違和感を持っていた者は、ここにもいる。
「申してよろしいでしょうか」
先に口を開いたのは、朴紘範だった。
「許す」
「報告は整いすぎております」
淡々とした声。
「症状の推移が一定であり、回復の経過も似通っている」
「それがかえって、不自然にございます」
世子は小さく頷く。
「尹怜はどう見る」
問われた尹怜は、わずかに息を整えてから答える。
「同様に感じております」
「何かが省かれている可能性がございます」
「何が省かれているのだ?」
「断定はできませぬが、薬、あるいは地域ごとの対処が記されていない恐れがございます」
世子はその言葉を受け止める。
やはり同じ結論に至る。
「私は、ひとりで考えすぎていた」
ぽつりと、言葉が落ちる。
二人は顔を上げた。
世子は続ける。
「解決しようと焦り、抱え込み、見落とした」
それは独白でありながら、同時に宣言でもあった。
「これからは違う」
視線が、二人を捉える。
「私は考える」
「だが、調べ、探り、確かめるのは、お前たちに任せる」
その言葉には、迷いがない。
朴紘範と尹怜は同時に頭を下げた。
「承知いたしました」
声が重なる。
世子はさらに続ける。
「疫病の収束、その裏に他の要因がなかったのか」
「薬、民間療法、地域特有の習慣、小さなことでもよい」
一つ一つ、明確に指示を与える。
「すべて洗い出せ」
短い命令。
しかし、その重みは大きい。
世子は深い呼吸をする。
答えを待つ世子の眼は、もはや迷っていなかった。
「疫病収束の真の理由を掴んでこい」
その一言は短いが、明確な命令であり、問いでも相談でもなく、従う以外の選択を残さぬ重さを帯びていた。
弘文館校理である朴紘範は一歩引き、音を立てぬように深く頭を垂れ、その所作に一切の迷いを見せず命を受け入れる姿勢を示した。
尹怜も同じように動き、膝の角度や背筋の伸び方に至るまで無駄のない形で礼を取り、その場に漂う緊張を崩さぬまま応じた。
「命、確かに承りました」
声は低く抑えられていたが、その中にためらいはなかった。
すでに動き出している思考の気配がわずかに滲んでいた。
世子はそれ以上言葉を加えない。
励ましもなければ期限も示されず、ただ命だけが残されることで、その重さがかえって際立つ形となっていた。
二人は顔を上げぬままその場を辞し、静かに後退してから背を向け、東宮殿を離れていく。
外へ出ると、わずかに空気が緩む。
しかし完全に解放されるわけではなく、命を受けた直後の緊張が体の内側に残り続けていた。
互いの気配は感じ取っているが、言葉は交わさない。
それぞれがすでに、自分の中で考え始めているからである。
朴紘範は歩を進めながら、胸の奥で静かに呟く。
世子も気づいていた。
あの報告の不自然さに。
塩を加えた湯冷ましと隔離は確かに有効ではある。
しかし、それだけであの症状が、あの速度で、あの規模で収束するとは到底考えにくい。
その違和は、理屈としてではなく、もっと深い場所から湧き上がる感覚として存在していた。
そしてその感覚の源は、過去の記憶にある。
高熱で意識を失いかける患者の額に手を当てたときの熱の重さ。
呼吸が浅くなり、胸が上下するたびに苦しさを訴える様子。
酸素が足りず、唇の色がわずかに変わっていくあの瞬間。
腹部の痛みに耐えきれず、身体を丸めながらも助けを求める声。
それらすべてが、断片としてではなく一つの流れとして記憶に残っている。
新型ナルコラウイルス。
その名を思い浮かべた瞬間、喉の奥に苦みが広がる。
五日過ぎても高熱が続き、意識を失う者もいた。
改善しているように見えた者が突然悪化することだった。
その変化は前触れが少なく、気づいたときには手の施しようがない。
朴紘範は足を止めずに、その記憶を押し戻す。
一方で尹怜も、同じように歩きながら別の角度からその記憶を辿っていた。
この世界には、あのとき使っていた道具はない。
塩分を含んだ水を与えることで一時的に楽になるが、それだけでは決定的な改善に至らない現実。
尹怜の中では、それらが一つの連続した光景として蘇る。
あの病は、単純ではない。
一定の経過を辿るようでいて、実際には個々で異なる反応を示す。
だからこそ、対処も一様では済まない。
それを、隔離と塩水を与えることの二つの方法だけで抑え込めたという報告。
あり得るのか。
その問いが、何度も頭の中で繰り返される。
尹怜は視線を前に向けたまま、小さく息を吐く。
役目は違うが、見る目は残っている。
二人はそれぞれ別の方向へと歩みを進めた。
朴紘範は記録へ向かう。
鏡咸、譲瓶、州羅。
それぞれの地域の報告書を並べ、流行の始まりと終わりの時期、対処の内容、回復の経過を一つずつ照らし合わせていく。
書かれていることだけでなく、書かれていない部分にも目を向ける。
なぜそこが空白なのか。
何が省かれているのか。
その違和に意識を集中させる。
尹怜は人へ向かう。
記録ではなく、記憶。
現場にいた者たちの言葉。
下働きや使者、商人や医官の従者。
どんな小さな話でも拾い上げる。
噂でも構わない。
笑い話でもよい。
そこには必ず、表に出ない何かが含まれている。
二人の胸の奥には、同じ覚悟があった。
この調査は、褒められるためのものではない。
場合によっては、誰かの不都合を暴くことになる。
それでも。
やらなければならない。
それは世子の命だからだけではない。
かつて救えなかった命が、記憶として残っているからだ。
東宮殿では、世子が一人静かに座していた。
命を出した後の顔には焦りはなく、ただ深く沈んだ思考だけがある。
医師ではないが医師だった。
その両方を抱えたまま、世子は待つ。
二人が持ち帰るであろう何かを。




