第85話 見抜く者見誤る者
「どうして、宮中に?」
問いは唐突だったが、州羅宅は驚いた様子も見せず、視線を落としたまま静かに答えた。
その横では、ソヨンが少し離れた位置に控え、気配を消すように立っている。
先ほどから一言も発していないが、世子嬪には、あの女官が今ここで交わされる全てを漏らさず聞いていることが分かっていた。
州羅宅は膝の上に置いた手を崩さず、まっすぐ前を見ずに言う。
「貧しさ、でございます」
短い答えだった。
だが、それだけで終わらせるつもりはないらしく、わずかに間を置いてから続けた。
「後ろ盾もなく、家もなく、戻る場所もありませんでした。ここに残るしか、なかったのです」
言い訳の響きはない。
嘆きの色もない。
ただ、事実を並べているだけの声だった。
世子嬪はその声を聞きながら、心の中で静かに頷く。
感情に溺れず、己を憐れまず、現実を現実として見ている。
宮中で長く生き残る者には、そうした冷たさにも似た正確さがいる。
(合格。)
胸の内でそう呟きながら、世子嬪は茶碗に指を添えた。
目の前の女官は、ただ厳しいだけの者ではない。
現実を飲み込み、その上で立っている。
それは、使える者の条件だった。
「貧しさだけで、ここまで残れるものかしら?」
州羅宅はすぐには答えなかった。
返答を遅らせたというより、言葉を選んでいるように見える。
「残れませぬ」
「なら、何が必要だった?」
「耐えることにございます」
「何を?」
「見下されることも、理不尽も、命じられたことも、でございます」
世子嬪はわずかに目を細めた。
州羅宅の声には熱がない。
だからこそ、重みがある。
「泣いても、腹は満たされませぬし、恨んでも、寝床は得られませぬ」
世子嬪の口元に、ほんのわずかな笑みが浮かぶ。
面白い女だと、改めて思う。
州羅宅は顔を上げない。
しかし、その姿勢には怯えた様子も媚びる気配もなかった。
主の機嫌をうかがうより、問われたことへ正しく返すことを優先している。
「それで宮中にしがみついた」
「はい」
「嫌ではなかったの?」
「嫌であっても、出ていけば飢えます」
「つまり、選んだのね」
「選ばざるを得ぬものを、選びました」
世子嬪はその返しに、心の中でさらに評価を上げる。
否応なく流されたと言わず、自ら選んだと言い切る。
その違いは大きい。
部屋の中には、しんとした静けさが満ちていた。
遠くで風が鳴る音がしても、この場の空気には触れられない。
ソヨンは近くに立ったまま、呼吸の音さえ立てずに控えている。
あの女官が沈黙を守っていることもまた、場の緊張をさらに際立たせていた。
世子嬪は視線を動かさぬまま、次の問いを投げる。
「では、次」
声の調子がわずかに変わる。
州羅宅も、それを感じ取ったらしく、背筋をさらに整えた。
「池に落ちた理由。見ていた?」
州羅宅は、はっきりと首を横に振った。
「いいえ。そこは、見ておりません」
即答だった。
濁りも、ためらいもない。
世子嬪はその答えを受け、すぐ次を重ねる。
「落ちる前は」
その瞬間、州羅宅の表情がわずかに引き締まった。
思い出しているというより、記憶を順に並べ直しているような沈黙だった。
「誰彼構わず・・・・」
「でございました」
淡々とした声が、静かな部屋に落ちる。
「人、物、近くにあるものへ、手当たり次第に当たり散らしておられました」
評価は乗せない。
ただ、事実だけを置いていく。
世子嬪は胸の内で頷いた。
それはソヨンから得ていた話と一致する。
つまり少なくとも、この女官は、その場しのぎに耳障りのよいことを言ってはいない。
「どの程度?」
「近づく者を払いのけ、目につくものを掴み、投げ、荒れておられました」
「叫んでいた?」
「声は荒げておられましたが、意味のない叫びではございません」
「意味があったの?」
「拒絶、でございます」
その言い方に、世子嬪は少しだけ興味を深める。
「何を拒絶していたと見るの?」
州羅宅は答える。
「目の前に迫るもの全てを、でございます」
「人も?」
「はい」
「手も?」
「はい」
「助けも?」
ここで州羅宅は、ほんのわずかに沈黙した。
「そのときは、助けと映らなかったのでございましょう」
世子嬪は、その返答を聞いて指先で茶碗の縁をなぞる。
面白い答えだ。
助けが助けとして届くとは限らない。
宮中では、むしろその逆の方が多い。
「では・・・・」
世子嬪はそこで一区切り置いた。
部屋の静けさがわずかに深くなる。
「唐順希への挨拶は?」
ここで州羅宅の言葉が止まった。
否定でも肯定でもない、微妙な間。
それは知らぬから黙るのではなく、正確に言うための間だった。
「少し、違います」
そう前置きしてから、州羅宅は続ける。
「唐順希様は、世子嬪に対して正室が側室候補に対する挨拶をなさいました」
世子嬪の口角が、わずかに上がる。
その微細な変化を見ても、州羅宅は声を乱さない。
「それに対して、無視は?」
世子嬪が言いかけると、州羅宅は慎重に言葉を挟んだ。
「されておりません」
「そう・・・・」
「ごくかすかに、挨拶は返しておられました」
それは意外な答えだった。
しかし州羅宅は、そこで終わらせない。
「ただし、」
その一言で空気が引き締まる。
「細かな観察力と、宮中の礼儀を熟知していなければ、挨拶と判断できない程度でございました」
世子嬪は黙ったまま、州羅宅を見つめる。
見ようとしない者には、見えない。
知ろうとしない者には、存在しない。
そういうことだ。
「お前には見えたのね?」
「見えました」
「なぜ?」
「見落とせば、後で死ぬからでございます」
世子嬪は、思わず目を細めた。
大げさな言い方ではない。
この宮中では、本当に些細な見落としが命に関わる。
「誰に教わったの」
「教わったというより、そうせねば生き残れませなんだ」
「最初から見えていたわけではない」
「はい。何度も痛い目を見ました」
「どんなふうに」
州羅宅は少しだけ視線を動かした。
だが、すぐに元の位置へ戻す。
「呼ばれたと思わず返事をせず、三日食を減らされたことがございます」
「小さい声だったの?」
「小さくとも、返事が必要な声でございました」
「他には?」
「礼の角度を見誤り、無礼と取られたこともございます」
「それで覚えた」
「はい。目で見、耳で聞き、誰がどこまでを求めているかを読むようになりました」
世子嬪は、州羅宅の輪郭がさらに鮮明になっていくのを感じていた。
厳しいだけの女官ではない。
観察し、記憶し、失敗の代価を払いながら己を研いできた者だ。
「唐順希は、あのとき何を見たと思う?」
州羅宅は、慎重に息を置いてから答えた。
「ご自身に返された挨拶ではなく、返されなかったという形を、でございます」
「つまり?」
「見たいものだけをご覧になったのかと」
世子嬪の目が、わずかに冴える。
州羅宅は今、かなり踏み込んだことを言っている。
唐順希の認識が誤っていたと、遠回しにではあるが示したのだ。
「お前、ずいぶん正直ね」
「問われましたので」
「恐ろしくないの?」
「恐ろしゅうございます」
「では、なぜ言?」
「嘘を申しても、後で綻びます」
世子嬪は少しだけ身体を前へ傾けた。
州羅宅も、かすかに息を詰める。
だが、逃げない。
「誰の味方?」
その問いは静かでありながら、鋭かった。
州羅宅は、すぐには答えない。
部屋の空気がさらに重くなる。
ソヨンは近くに立ったまま、石のように動かない。
この沈黙の中で、口を挟まぬことが最善だと知っているのだろう。
やがて州羅宅が口を開く。
「宮中で生き残ることの、味方でございます」
世子嬪は、その答えに微かに笑う。
誰か一人ではなく、生存そのものに忠実なのだ。
実にこの女らしい。
「なら、私が沈めば・・・・」
「私も危うくなります」
「私が立てば?」
「私にも利がございます」
「分かりやすい答えで安心したわ」
「飾っても仕方がございません」
「忠義はないの?」
「後から育つものもございます」
「今はまだない?」
「今は、見極めております」
世子嬪はそこで、はっきりと笑った。
ほんのかすかではあるが、部屋の空気がわずかに緩む。
「いいわ。そういう者は嫌いではない」
州羅宅は頭を下げた。
だがその動作にも、過剰な安堵はない。
気を抜かぬ者だ。
世子嬪はさらに問いを重ねる。
「では聞くけれど、私は無視した女に見えた?」
州羅宅は即答しない。
それでも、逃げる気配はなかった。
「無視したように、見せることはできるほうに見えました」
「面白い答えね」
「実際に無視なさったのではなく、見る者の粗さがそう判断したのだと存じます」
「では私は、何をした?」
「最低限を返し、それ以上は与えなかったのでございます」
世子嬪は、その答えに満足する。
まさにその通りだ。
分かる者には分かるが、分からぬ者には永遠に届かない。
その程度の挨拶に留めた。
「お前、本当によく見ている」
「見ねば、生き残れませぬ」
再び同じ答え。
だが今度は、それが単なる理屈ではなく、この女の根にあるものだと伝わってくる。
世子嬪はゆっくり息を吐いた。
州羅宅は観察者だ。
噂を作る側ではなく、噂の歪みを見抜く側。
だからこそ、恐ろしい。
そして、だからこそ使える。
「もう一つだけ」
「はい」
「私のことを、どう見ている?」
この問いには、州羅宅もわずかに長く沈黙した。
慎重に言葉を選んでいる。
嘘を言えば見抜かれると分かっているのだろう。
「変わられた方、にございます」
「前と後ろで」
「はい」
「どちらが本当だと思う?」
州羅宅は静かに答えた。
「どちらも、本当でございましょう」
世子嬪の目がわずかに細まる。
「理由は」
「人は追い詰められれば荒れます。ですが・・・・」
「荒れたままで終わるとは限りませぬ」
「私は終わらなかった」
「はい。戻ったのではなく、選び直しておられるように見えます」
その答えは、意外なほど核心に近かった。
世子嬪は、州羅宅の観察眼を改めて認める。
この女は表面だけを追わない。
変化をただの気まぐれとして片付けず、流れとして見ている。
しばし、沈黙が落ちた。
ソヨンは依然として近くに立ったまま、一切口を開かない。
その沈黙は、この部屋における正しい振る舞いだった。
世子嬪は茶碗を持ち上げ、ぬるくなりかけた茶を一口含む。
それから州羅宅へ視線を戻した。
「よく分かった」
州羅宅は深く頭を下げる。
その所作は正確で、無駄がない。
だが今の世子嬪には、先ほどまでとは違うものも見えていた。
この女はただ命じられたことをこなすだけではない。
見て、測って、選んでいる。
世子嬪の胸の内では、すでに次の一手が形を取り始めていた。
誰を遠ざけ、誰を近くに置くべきか。
何を語らせ、何を黙らせるべきか。
そのための駒として、州羅宅は思っていた以上に有用である。
この女は、見抜く。
そして見抜いたことを、必要な相手にだけ差し出せる。
それは宮中では得難い才だ。
世子嬪は、次の一手を、静かに思い描いていた。




