表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
鏡の王宮、眠る身体、動く身体 ーー体が動く間、別の名が呼ばれるーー  作者: 明日葉


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

80/113

第79話 守られた屋敷と守られなかった屋敷

一週間後。


白俊とヨリは、いつもの時刻に鏡咸金氏の屋敷を訪れた。

もはや定期往診と言っても過言ではない。


門をくぐる所作も、名乗りも、すべてが型通りだ。

歩く速さも、視線の運び方も変えていない。


変えないという選択そのものが、この屋敷にとっての安定となっている。


白俊は、わずかに内心で苦笑した。


まるで補薬を届けに来る医官のようだ。


だが、それでも構わない。

繰り返しの中で信頼が形になることを、白俊は理解している。


案内され、奥へ進む。


屋敷の空気は明らかに違っていた。

張り詰めた緊張は薄れ、だが緩みきってはいない。


保たれた静けさ。


それは、守られている証だった。


寝所に入ると、当主はすでに寝台から離れていた。


きちんと衣を整え、背筋を伸ばして座している。


その姿は、二十日前とは別人のようだった。


白俊は何も言わず近づき、脈を取る。


指先に伝わる拍動は、安定しており、乱れもなく力も十分だ。


吸気も呼気も自然で、濁りはない。


口内の状態も咽頭も腹部も正常に戻っている。


一連の診察を終え、白俊は短く告げた。


「完全に回復しています」


その言葉に、当主は深く息を吐いた。


それは安堵というより、「やっと終わった」という区切りを受け入れた現実的な吐息だった。


長く続いた緊張が、ようやく終わったという実感だ。


「咳も、もう出ていません」


白俊は静かに頷く。


症状の残滓もない。


それを確認できた以上、結論は揺るがない。


続けて屋敷内の状況を確認する。


「他に、体調を崩した者は?」


当主は即座に答えた。


「一人もおりません」


迷いのない返答。


その速さに、誤りはないと分かる。


白俊はその答えに満足した。


それは偶然ではない。


言われたことを、言われた通りに実行した結果だ。


白俊はこの屋敷に対し、明確な指示を二つほど出していた。


外出の禁止。


当主だけではない。

屋敷に住むすべての者に対してだ。


外から持ち込ませない。


それが最も確実な防御である。


さらにもう一つ。


薬草を乾燥させたものを、茶の代わりに一日五回以上飲むこと。


疫病の早期回復と予防に、この薬草の効果があるか確かめるためでもある。


この指示も、例外なく守られていた。


婦人が静かに口を開く。


「代金は、すでにお支払いしております」


その声音には迷いがない。


白俊は当然のように頷いた。


効果検証であろうと、金は取る。


それが彼の流儀だった。


施しではない。

取引である。


対価があるからこそ、相手も真剣になる。

指示は軽く扱われない。

結果として、守られる。


この屋敷に住むものは、全員が指示を守っていた。


外に出ない。

薬草を煎じた茶を飲む。

食器は分ける。

洗濯も分ける。


どれ一つ曖昧にされていない。


白俊は屋敷を見渡しながら、静かに思う。


家人の教育が、隅々まで行き届いている。

命令が下れば徹底する。

無意味な反論をしない。

勝手な判断を挟まない。


疫病の前では、それが何よりも強い。


白俊は立ち上がり、当主へ向き直った。


「もう、私の役目は終わりです」


当主は深く頭を下げる。


「本当に、ありがとうございました」


その言葉には、飾りがない。


白俊はそれを受け止めるだけで、礼は返さなかった。


ヨリは、当主に紙を渡した。


"茶の代わりにしてください"

"ほんの少し塩を加えると甘みのあるものになります"


そして、茶の代わりに飲むように指示していた煎じ薬の元となった、乾燥した薬草の包みをを当主に渡した。


当主は頷きながらヨリから薬草の包みを受け取った。


"この茶について、後日連絡するかもしれない"


包みの上には、と書かれた紙があった。


「わかりました」


当主は穏やかな笑みを浮かべながら言った。


この屋敷は、もう守られている。


それを確認できただけで十分だった。


白俊とヨリは寝所を出る。


来た時と同じ歩幅、同じ速さを崩さない。


それが最後までの作法だった。


門へ向かう途中、家人たちの動きが視界に入る。


静かで、無駄がない。


それぞれが役割を理解している。


その姿は、もはや混乱の中にあるものではなかった。


鏡咸の空気は、依然として重い。

疫はまだ広がっている。


別の場所では、同じ症状が繰り返されている。


白俊とヨリは歩みを止めず、門を出ようとしていた。


次に向かう先も、疫病の真っ只中にある。


だが一つだけ、確かなことがある。


この屋敷では、止まったと言う事実だけが、静かに残っていた。


* * * *


白俊は、この対極にあった屋敷を知っていた。

北西部の鏡咸に根を張る、錦城金氏の一族。

国舅の親戚筋にあたる家だ。


その長子が、まったく同じ疫病に倒れたのだ。


白俊が最後に診た時、すでに結末はほぼ見えていた。


金が惜しかったのか。

または、自分たちは大丈夫だという根拠のない自信か。

あるいはその両方か。


使用人たちには、薬草も与えられず、口を覆う布すら配られていなかった。

病人の世話をする者が、無防備なまま屋敷を行き来する。

当然のように、家の中では病は広がった。


長子から最初に病を移されたのは、その世話をしていた長子の付き人だった。


長子の付き人は、病にかかったことがわかると納屋に隠された。

適切な治療を受けることもなかった。

長子の付き人の治療にあたった他の使用人にも病はうつっていった。

病をうつされた使用人たちは、長子の付き人と同じ納屋に隠された。


さらに、長子は、熱が下がったところで薬をやめた。


もう治ったと自己判断したのだ。


白俊は

「まだ終わっていない」

と告げた。


だが、聞き入れられることはなかった。


薬をやめた途端、熱は再燃した。

それは最初より勢いを増し、結果として屋敷中に病を撒き散らす結果となった。


家に住むもの全員が病にかかり、息絶え、帰らぬ人となった。


鏡咸に根を張る、錦城金家は一家全滅した。


結局、命より、金が大事だったのだろう。


白俊はその結論を、冷たく、だが淡々と受け止めた。


だからこそ、鏡咸金氏の屋敷での光景は、対照的だった。


当主は回復し、家中に感染者は一人もいない。


言われたことを、疑わず、徹底して守った結果だ。


門を出ようとしたところ、二人を追ってきた当主に呼び止められた。


「今後、この家に病の者が出たら、すぐに連絡します。」


「そのために、あなたの居所を知っておきたい」


さらに続ける。


「困ったことがあれば、いつでも相談に来てください。」


「力になれることがあるはず……」


とも言われた。


白俊は一瞬考え、頷いた。


自らの居所を告げる。


「不在の時は、文を残してください。必ず目を通します」


当主は深く、丁重に頭を下げた。


白俊もヨリも、同じだけ頭を下げ返す。


薬草の効果も、隔離と予防の有効性も、すべて確認できた。


門を出たあと、白俊の左の口角が、わずかに上がった。


満足、というほど大仰なものではない。


ただ、「正しい結果」を検証しただけのことだ。


白俊。


その中身は白川俊介。


西京先端科学大附属病院・麻酔科医。


現代でも、彼は医者として人を診ていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ