第78話 熱が去った後に残るものと甘い処方
白俊の往診は、十日目を迎えていた。
屋敷に入る時刻も、歩く速さも、門をくぐる所作も、すべて初日から変えていない。
変わらないということ自体が、この家にとっては一つの規律だった。
寝所に入ると、当主はすでに上半身を起こして待っていた。
顔色は戻り、目にははっきりとした光がある。
白俊は無言で脈を取る。
規則正しい拍動。力も十分だ。もはや病に侵されていた痕跡は、指先からは感じ取れない。
次に口内を確認する。
舌の色、乾き、粘膜の状態。
咽頭も覗くが、腫れは引き、赤みもほとんど残っていない。
腹部の触診でも異常はない。
押しても痛みはなく、張りも消えている。
診察の一連の流れは、十日間ずっと同じだった。
だが、今日だけは、その結果が明確に違っていた。
五日目に熱が下がり始めた。
八日目には、目で見てもわかるほど完全に熱が引いた。
九日目には、自力で起き上がれるようになった。
そして今日――十日目。
白俊は呼吸音に耳を澄ます。
胸の上下は自然で、吸気も呼気も澄んでいる。健常人と変わらない音だ。
ただし。
当主は、小さく咳き込んだ。
「咳が出ますな・・・・」
当主自身がそう言って、少しだけ苦笑した。
白俊は頷いた。
「出ます。ですが、問題ありません」
そう前置きしてから、はっきりと告げる。
「もう、通常の生活に戻して構いません」
その言葉に、寝所に控えていた婦人と娘の表情が一斉に緩んだ。
だが白俊は、そこで終わらせない。
「咳は後に残っているものです。しばらく続きます。
病が残っているわけではありませんが、無理は禁物です」
白俊は荷から小さな包みを取り出した。
「薬を変えます。今度は咳止めです。
一日三回、今までと同じ時刻に飲んでください」
ヨリが包みを三つ、卓の上に置く。
「三日分です。噛まずに、必ず湯冷ましで飲むこと」
当主は深く頭を下げた。
「命を拾いました」
白俊はそれを、軽く手で制した。
「拾ったのではありません。守ったのです。
言いつけを守ったから、ここまで来た」
少し間を置いて、付け加える。
「三日後、また往診に来ます。それまでは油断しないこと」
白俊はそう告げ、立ち上がった。
寝所を出る直前、当主の咳がもう一度聞こえた。
だが、それは苦しさを伴うものではない。
外に出ると、空気は以前よりも軽く感じられた。
疫病はまだ、鏡咸の地に残っている。
だが、少なくとも、ここに一つ、越えた山がある。
白俊はそう判断し、次の往診までの三日を頭の中で静かに数えながら、屋敷を後にした。
ヨリは白俊の後に続いた。
三日後。
白俊とヨリは、いつもと同じ時刻に鏡咸金氏の屋敷を訪れた。
門をくぐる足取りも、息の整え方も変わらない。変えないことが、相手に余計な不安を与えないと知っている。
当主は、前回よりもはっきりとした足取りで白俊を迎えた。
顔色は良く、姿勢も安定している。
白俊は座るよう促し、静かに問う。
「この三日、いかがでしたか?」
当主は少し考えてから、正直に答えた。
「咳は、だいぶ治まりました。」
「ただ・・・・」
「一日に何度か、激しく咳き込むことがあります」
白俊は頷き、すぐに次の問いを重ねる。
「激しい咳が出る前、何か前触れはありますか」
当主は目を伏せ、記憶をなぞるように言葉を選んだ。
「息を吸ったとき、一瞬ですが、苦しくなります。」
「その直後に、咳が出ます」
白俊は、その答えを聞いた瞬間に結論を出した。
脈を取る。
呼吸音を確かめる。
口内、咽頭、腹部を一通り診て、異常がないことを確認する。
「咳止めは、もう必要ありません」
当主が驚いたように顔を上げる。
「では、この咳は・・・・」
「病ではありません。治りきっていない喉が反応しているだけです」
白俊はそう言い切り、ヨリを見た。
白俊の視線を見て、ヨリは荷から小さな包みを取り出した。
包みを開くと、中には見慣れたものが入っている。
飴玉だ。
当主も、その妻も、一瞬言葉を失った。
白俊は淡々と説明する。
「激しい咳が出る前兆を感じたら、これを一つ口に含み、噛まずに溶かしてください。」
「喉を潤し、呼吸が整えば、咳は深くならずに済みます」
「これは、その・・・・、その辺で売っている飴玉では?」
当主が遠慮がちに問う。
「そうです」
白俊は否定しない。
「効くものは全て薬です」
「今のあなたに必要なのは、強い薬ではありません」
包みを卓に置き、続ける。
「これで十分です。次の診察は、一週後に」
そう告げると、白俊は立ち上がった。
当主は深く頭を下げた。
「重ねて、礼を申し上げます」
白俊は軽く手を挙げ、それ以上の言葉を受け取らなかった。
そして何も言わぬまま、踵を返した。
ヨリもその後に続く。
疫病はまだ終わっていない。
だが、こうして日常に戻る家があった。
白俊はその事実を胸に刻み、次の一週に備えて屋敷を後にした。




