第77話 治すための手順と崩れぬ規律
白俊は、寝所に差し込む光の具合を一瞥してから、低く声を出した。
朝と昼の境が曖昧な時間帯。
影の長さがわずかに傾き始めた頃合いだった。
「まず、これを飲んでいただきます」
包みを解くと、そこには自ら調合した丸薬が並んでいた。
色は鈍く、香りは強い。
見ただけで苦味が想像できる代物だ。
それでも躊躇する余地はない。
「一日三回。時刻は必ず一定にしてください」
白俊は言葉を区切らず、一定の調子で続ける。
「朝、昼、夜。間を空けすぎても、詰めすぎてもいけません。
薬は量ではなく、間隔で効き方が変わります」
家人が緊張した面持ちでうなずくのを確認し、白俊はさらに言葉を重ねた。
「湯冷ましに塩を混ぜたものを用意してください。
一日に一升。半刻おきに、一定量ずつ飲ませること」
視線が一瞬だけ当主へ向けられる。
荒い呼吸の合間に、わずかに眉が動いた。
「喉が渇いたからといって、勝手に量を増やしてはいけません。
逆に減らすことも許されません。決めた量を守ることが、最も重要です」
水ではなく、塩を混ぜる意味。
当主はそれを理解しようとしている。
白俊はその様子を見逃さなかった。
「吐いても、下しても、続けます。
体から失われるものを補わねば、薬が効く前に力尽きます」
静かな声だった。
迷いもなく躊躇もない声。
だが、その内容は容赦がない。
白俊は当主から視線を外し、家人全体を見渡す。
「世話は三人で実施してください。
ご婦人とお嬢様ともうお一方、決まった人だけが交代で行ってください。一人に任せきりにしない」
その言葉には明確な意図があった。
一人が倒れれば、連鎖する。
それを防ぐための指示だった。
さらに、世話をするものを限定し、感染を広げるのを防ぐのを目的としたものであった。
「家の者は全員、口に布を当てること。
息で病が移る可能性を否定できません」
その一言で、空気がわずかに揺れる。
家にいる者の間に、わずかなざわめきが走ったのだ。
目に見えぬものへの対処。
理解しきれぬ不安が広がる。
だが白俊は止まらない。
「熱湯を常に用意してください。
患者が使った器、箸、布はすべて分け、熱湯をかけた後に焼酎で洗うこと」
言葉は一つずつ、確かめるように置かれる。
「病にかかっていない者が使う食器と、病にかかったものが使った食器は決して一緒にしないこと」
白俊は、一つ一つ確かめるように言葉を発した。
白俊の言葉はさらに続く。
「衣も同じです。洗濯は別、干す場所も別。
触れた者は、その都度、手を洗うこと」
常識から外れていると感じる者もいる。
だが誰一人、口を挟まない。
それが現状だった。
「丸薬は噛まずに飲み込むこと。
必ず塩水で流し込む。味を確かめようなどと考えない」
白俊は、ヨリに卓に一日分の丸薬を並べさせた。
整然とした配置。
それだけで、規律が視覚化される。
「薬が定刻に一つずつなくなること、それは悪い兆しではありません。
生きている証です」
最後に、淡々と付け加える。
「もちろん、金はいただきます。
治れば安くはありません。治らなくとも、返しません」
誰も異を唱えない。
命の前では、対価は条件にならない。
白俊とヨリは立ち上がる。
「明日も同じ時刻に来ます。
それまで、今言ったことを一つ残らず守ってください」
そのまま寝所を出る。
背中は迷いなく、振り返らない。
鏡咸の空気は重く静かだった。
沈んでいる。
だがその中に、わずかな筋道が引かれた。
生き延びるための、細い線。
それが確かに置かれた瞬間だった。
* * * *
白俊とヨリは、翌日そのまた翌日も
毎日同じ時刻に鏡咸金氏の屋敷を訪れた。
早すぎず、遅すぎず。
太陽の位置と影の長さがほぼ同じ位置に重なる時間だ。
変化を測るには、それが最も正確だった。
寝所に入ると、まず脈を取る。
指先に伝わる拍動。
初日とは明らかに違う。
乱れはある、だが、消えかけていた力が戻りつつある。
細く途切れそうで、しかし途切れない。
しがみつくような生のリズム。
細かな変化を見逃さない。
咽頭を覗き込み、腫れと赤みを確認する。
呼吸音に耳を澄ませ、胸の上下を追う。
腹部の触診も欠かさない。
硬さ、張り、痛みの有無。
触れるたび、当主の表情がわずかに歪む。
だが拒絶は弱い。
以前のような強い反発はない。
それを白俊は言葉にしない。
ヨリは、白俊の指示で症状を詳細に記録していく。
三日目までは沈黙を保った。
必要最低限の指示のみ。
余計な希望も、不安も与えないためだった。
そして四日目。
脈を取り終えた白俊は、ほんのわずかに指を止めた。
(・・・・・・・・)
変化は確かにある。
鏡咸金家当主の呼吸はまだ荒い。
だが深さが違う。浅く、必死に空気を掴もうとして朦朧としていた頃とは違う。
空気を掴もうとする焦りが、わずかに減っている。
白俊は静かに身を起こす。
側に控える婦人の方へ向き直る。
「改善しています」
その一言で、婦人の肩が震えた。
だが白俊は続ける。
「ただし」
白俊は一旦言葉を区切る。
「一時的な可能性もあります。
油断は禁物です。
ここからが最も危うい」
油断を許さない。
それが医師としての判断だった。
婦人は繰り返しうなずいた。
「手順を崩さないでくださいS。
薬も塩水も、絶対に止めてはなりません」
白俊の声は低く、淡々としている。
だがその淡々とした響きが、ことの重大さをより強く伝えており、重みは増していた。
「楽そうに見えるからと量を減らすことは、最も危険です」
さらに重ねる。
「食器と洗濯物の区別は続けてること。
少し良くなったからといって、決して混ぜてはなりません」
婦人は唇を噛み、はっきりと答える。
「はい、守ります」
白俊は再び当主の方へ視線を戻す。
当主の目は、まだ焦点が定まらないものの、確かに白俊を捉えていた。
確かに、意志があり、生きようとする目だ。
「本日はここまでです」
そういって、白俊とヨリは立ち上がる。
「明日も同じ時刻に来ます。
伝えたことを必ず守ってください」
寝所を出る直前、一度だけ振り返った。
当主の胸は、きちんと上下に動いている。
外に出ても、空気は変わらなかった。
重く、沈んでいる。
疫病は終わっていない。
それでも、確実に何かが変わり始めている。
白俊はそう判断して、屋敷を後にし、歩みを止めなかった。
ヨリは、黙って白俊に続いた。




