第76話 影に生きる一族とその治療
場所は変わり、鮮朝北西部、鏡咸。
山に囲まれ、風は乾き、外からの流れが緩やかにしか入らぬ土地。
その静けさの中で、疫は確実に広がっていた。
最初はただの熱として現れた。
誰もが、いつもの季節病だと思った。
身体が熱を持ち、数日で下がるはずだった。
だが違った。
熱が下がらない。
むしろ時間とともに高まり、意識が揺らぎ始める。
やがて呼吸が浅くなり、胸を押さえるようにして息を求め、息が吸えなくなる。
それは苦しさという言葉では足りない。
身体の奥から削られるような、逃げ場のない圧迫。
さらに腹の奥に痛みが走る。
内側を掴まれるような痛み。
それに耐えきれず、地に倒れ、動けなくなる。
そして、そのまま戻らなくなる。
原因は分からない。
祈祷が行われ、隔離も試された。
衣や寝具も焼かれた。
だが、効果はなかった。
広がりは止まらない。
最初に異変に気づいた者は、運が悪かっただけだと思った。
家の中で一人が倒れ、周囲はそれを看病し、やがて同じ症状を見せる。
それでもまだ、偶然と呼べる範囲だった。
だが数日も経たぬうちに、同じことが別の家で起きる。
さらに少し離れた場所でも、同じ順序で人が倒れていく。
死は派手ではない。
叫びもなく、争いもなく、ただ静かに動かなくなる。
だからこそ、周囲は最後まで理解が追いつかない。
昨日まで歩いていた者が、今日には起き上がれない。
その変化の速さが、判断を鈍らせる。
村人たちは最初、距離を取ることで防げると考えた。
家を閉じ、訪問を断ち、外との往来を減らす。
だが、それでも足りなかった。
すでに内側に入り込んでいる。
誰が最初だったのか分からない。
どこから来たのかも分からない。
分からないまま、数だけが増えていく。
看病する者が倒れ、看取る者が次に倒れる。
それを見ていた者が逃げ出し、別の場所へ移る。
その移動が、また次の種になる。
その繰り返しの中で、土地の空気そのものが変わっていく。
泣き声も減り、怒鳴り声も消え、ただ戸が閉じられる音だけが残る。
生きている者ほど、声を出さなくなる。
それが一番の異常だった。
やがて誰もがこれは避けられないものだと気づくが、その理解は遅く、理解した時には、すでに次の誰かが倒れている。
終わりが見えないまま、静かに続く。
それが、この疫の本質だった。
静かに、確実に、人を減らしていく。
北西の鏡咸という静かな場所に、根を張っている鏡咸金氏の当主が倒れた。
政治の表舞台には決して出て来ない静かな一族だ。
発熱は一晩で極まり、身体はすぐに限界へ近づいた。
呼吸は浅く、速くなり、胸が上下するたびに苦しさが増す。
腹を押さえ、声も出せずに呻く。
屋敷は静まりかえっていた。
普段ならば整えられている空気が、今は乱れている。
いるのは使用人と、わずかな護衛だけ。
誰もが分かっている。
このままでは、助からない。
鏡咸金氏は動いた。
普段は表に出ない一族が、初めて外へ手を伸ばす。
噂にすがるように、治療できる医師を探し始めた。
確かな情報ではない。
それでも、動かねば終わる。
その噂を、耳にした一人の医師がいた。
国中を歩く医師で、弟子見習いを連れて歩いていた。
山へ入り、薬草を探す。
野に寝て、必要とあればどこへでも向かう。
医師の名は白俊。
白氏の血を引く者。
かつて王の身体へ刃を入れ、生を繋いだ一族の末裔と噂されていた。
一方、弟子見習いはヨリといった。
整った顔立ちをしているが、無表情だ。
彼女は声を持たないため、白俊とは筆談で会話をしていた。
白俊は宮中に属さず、呼ばれても留まらない。
病は身分を選ばない、ならば医師も、場所を選ぶべきではないという考えを持っていた。
弟子見習いは何も語らず、白俊がどこにいこうともついて歩いていた。
鏡咸金氏が医師を求めている。
その話を聞いたとき、白俊は足を止めた。
鏡咸金氏。
地味で目立たず、それでいて奇妙に評判が良い。
迷いはなかった。
「私が診る」
それだけを言い、弟子見習いを連れて歩き出す。
鏡咸金氏の屋敷へ到着した時、門前で止められた。
当然の対応だった。
だが名を告げた瞬間、空気が変わる。
警戒は消えないが、迷いが消える。
当主の寝所へ、弟子見習いとともに通される。
そこにいたのは、やせ細り、息を荒くする男だった。
額は異様に熱く、唇は乾き、色を失っている。
腹を押さえたまま、動けない。
白俊は迷わず近づく。
脈を取り、胸の動きを見て、呼吸の間隔を数える。
一つずつ、確かめて、確信する。
これはただの熱ではない。
白俊は静かに口を開いた。
「治療は可能です。ただし、覚悟が要ります」
その言葉に、家人たちの息が止まる。
希望ではなく、現実だった。
「派手な祈祷はしません。即効性のある奇跡もありません」
声は落ち着いている。
「ですが、やれることはすべて行います」
その言葉は軽くない。
できることの範囲が限られていると知った上での宣言だった。
当主が、わずかに目を開く。
焦点は合っていない。
だが確かに白俊を捉えた。
「頼む」
短い言葉だった。
それで十分だった。
白俊はうなずく。
躊躇なく、目の前の命を救う。
それ以外は考えない。
白俊とヨリは口元に布を当てた。
疫病との戦いが始まった。




