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鏡の王宮、眠る身体、動く身体 ーー体が動く間、別の名が呼ばれるーー  作者: 明日葉


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第75話 素振りの途中で聞いた名もなき疫

世子嬪金民娥は、今日も棒を握り、何度目かの素振りを繰り返していた。

風を切る音が、同じ調子で続く。

上から振り下ろし、戻し、もう一度振る。


無駄な力は入れない。

筋肉を動かし、呼吸を整え、身体の感覚を外へ流すための動作。


目的は鍛錬ではない。


見せるための形でもある。


奇声を上げろ。

暴れろ。


その設定は、今日も有効だった。


外から見れば、ただの奇行。

近づく価値もないと判断される。


だから誰も寄ってこない。

誰も何も言わない。


視線だけが遠巻きに置かれ、干渉はされない。


都合がいい。


民娥は棒を振りながら、次の動きを考えていた。


どこまで崩すか。

どこまで整えるか。


民娥として振る舞う以上、過剰な変化は不自然になる。

だが変えなければ、別の意味で詰む。


民衆が知っている民娥。


その像を崩さずに、どこまで別の動きを差し込めるか。


考えは、常にその一点へ収束する。


振り下ろし。

戻し。

もう一度。


同じ動作を繰り返しながら、内側では別の計算が進む。


その時だった。


外から、わずかな声が入り込んできた。


女官と付人。

通路の奥で、抑えた声で話している。


意図して聞かせる声ではない。

だが、完全に隠す気配もない。


「疫だそうです」


「北西と南で同時にと」


「症状が、ただ事ではないとか」


棒の動きが、一瞬だけ止まった。


止めたつもりはない。

だが、身体が先に反応した。


耳を澄ませる必要はない。


断片だけで十分だった。


高熱。

急激な呼吸の低下。

腹部の強い痛み。


そして、すべてが死に至る。


握っている棒が、わずかに軋む。


指先に汗が滲む。


来たか。


頭の中で、形がはっきりと立ち上がる。


名のないそれ。


だが民娥は知っている。


新型ナルコラウイルス。


この世界ではまだ名付けられていない。

概念としても共有されていない。


だが記憶としては否定できない。


棒をゆっくり下ろす。


息を吐く。


その動作は外から見れば、ただの休止に過ぎない。


だが内側では、別の時間が流れていた。


思い出すのは、流行以前の自分たち。


あの頃は、まだ選択肢があると信じていた。


試した。

考えた。

動いた。


治療法も、対策も、仮説も。


手当たり次第に積み上げた。


成功もあった。


確かに救えた命もあった。


だが同時に、救えなかった命もあった。


それでも前に進んでいると思っていた。


貢献していると、疑わなかった。


だからこそ。


新型ナルコラの前で、自分たちが何もできなかったという事実が、耐え難かった。


どれだけ知識があっても。

どれだけ経験を積んでも。


すべてが後手に回る。


対応は常に遅れる。


対策は結果のあとにしか存在しない。


封鎖。

隔離。

制限。


それらは必要だった。


だが同時に、それが間に合わなかった証でもあった。


何度も突きつけられた現実。


届かない距離。


間に合わない判断。


救えないという事実。


同じだ。


民娥はわずかに唇を噛んだ。


この世界でも、同じことが起きる。


いや、それ以上になる。


医療という概念が不足している。

用語も統一されていない。

原因の共有すら難しい。


呼吸が落ちるという現象すら、統一された理解がない。


だから対策も遅れる。


棒を持つ手に、再び力が入る。


隔離だけでは止まらない。


それは分かっている。


だが、それを言えば異端になる。


動けば疑われる。


口を出せば、民娥という立場から外れる。


それは許されない。


今ここで、正しいことを正しいまま言うことは、最悪の選択になる。


だから。


民娥は、もう一度棒を振った。


わざと大きく。


わざと乱暴に。


風を切る音が、先ほどよりも強く響く。


外から見れば、ただの奇行。


いつも通りの民娥。


だが内側では、完全に別の判断が動き始めている。


時間がない。


それだけは確定している。


判断を遅らせれば、すべてが遅れる。


だが急げば、露見する。


この均衡を崩さずに動く必要がある。


民娥は振り下ろしの動作を止めずに考える。


どこから手をつけるか。


誰に触れるか。


何を言わずに、何を動かすか。


風がまた通る。


遠くで女官の声が消える。


通路は再び静かになる。


だがその静けさは、先ほどとは違う意味を持っていた。


まだ誰も知らない。


まだ誰も理解していない。


だからこそ、今は静かだ。


だがこの静けさは長く続かない。


民娥は呼吸を整えながら、動きを止めない。


考えはすでに次の段階へ進んでいる。


棒を振るたびに、判断が一つずつ固まっていく。


表では崩れたまま。

内側では整え続ける。


その矛盾を維持したまま、動くしかない。


素振りの音だけが、一定の調子で続く。


誰も近づかない。

誰も何も言わない。


その状況が、今は何よりも価値があった。


民娥は動きを止めず、静かに次の一手を組み立てていく。


見える形は変えない。


だが見えない部分だけを、確実に変えていく。


それができるかどうかで、この先が決まる。


素振りは続く。


同じ動作の繰り返しの中で、ただ一つだけ確かなことがあった。


この疫は、止まらない。


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