第74話 便殿、封じられる病名
疫病発生の知らせは、夜明け前の薄暗い時間に便殿へ届けられた。
急使の声は明らかに震えており、その異様さは伝達の形式を崩すほどではないが、聞く者の背筋を静かに冷やすには十分だった。
文書を受け取った内官の顔色は、その内容を読み取った瞬間に明確に変わり、隠そうとしても隠しきれない動揺がわずかに滲んだ。
その変化だけで、ただ事ではないと理解できる。
ほどなくして便殿に人が集められた。
呼び集められた者たちは皆、何が起きたのかを完全には知らされていない。
だが空気はすでに緊急を帯びていた。
形式は整っている。
しかし、その内側にある緊張は隠しきれない。
世子も参聴を命じられ、その場に加わっていた。
報告は簡潔だった。
余計な装飾はなく、必要な情報だけが並べられる。
だが、その内容は致命的だった。
発生地域は三箇所。
北西部の鏡咸と譲瓶。
そして南部の州、州羅。
距離が離れている。
連続ではなく、同時に近い形での発生。
それだけで異常だった。
症状は共通している。
高熱。
急激な呼吸不全。
激しい腹痛。
そして例外なく死亡。
報告が終わった瞬間、場の空気が目に見えて重くなった。
誰もが理解する。
これは局所の問題ではない。
広がる可能性がある。
すぐに対策が並ぶ。
隔離。
封鎖。
往来の禁止。
官僚たちの口からは、これまで幾度となく使われてきた言葉が順に出てくる。
それらは正しい。
だが同時に、それだけでは足りないという感覚もどこかに残る。
世子は黙って文書を見つめていた。
視線は動かない。
だが内側では、まったく別の思考が高速で巡っている。
同じだ。
龍義秀の中で、徳永義秀としての記憶がはっきりと告げる。
症状の順序。
進行の速さ。
致死率。
すべてが一致する。
新型ナルコラ。
この世界にはまだその名はない。
だが、自分の中に知識としては存在している。
名前が違うだけで、本質は同じ。
隔離だけでは足りない。
その確信が、強く胸の奥にある。
「世子」
声をかけられ、わずかに顔を上げる。
「聞いています」
短く答える。
表情は変わらない。
だが内側では、別の思考が止まらない。
空気感染の可能性。
潜伏期間中の移動。
無症状者の存在。
それらが組み合わされば、封鎖は間に合わない。
もし陽漢へ入ったら。
隔離が追いつかなければ。
そそう判断した瞬間、別の光景が否応なく浮かび上がる。
搬送が途切れず、処置室の外にまでストレッチャーが並び、
誰を先に中へ入れるかという順番が、そのまま生死の差になっていた。
呼吸が落ちた患者の前で、考える時間は与えられない。
挿管の判断も、酸素投与の切り替えも、すべてが秒単位で迫ってくる。
それでも戻らない例が増えていく。
正しい処置を重ねても、数値は上がらず、
気づけば判断は「助ける」から「どこで切るか」へ変わっていた。
選択は常に遅れている。
その遅れが、そのまま命を削っていく。
あの時、自分たちは確かに現場にいた。
だが、間に合ってはいなかった。
同じ場で、弘文館校理もまた沈黙していた。
表情は変えない。
だが内側では、別の記憶が浮かび上がる。
またか。
澤井としての記憶が否応なく呼び起こされる。
病床。
人工呼吸器の音。
数値が崩れ、そのまま戻らなかった患者たち。
高熱のあとに呼吸が落ちる。
腹部症状は臓器障害の前兆。
すべてがつながる。
机上の議論がどれほど無力だったかも、すでに知っている。
数値は理屈通りに崩れていく。
炎症の指標は上がり、呼吸状態は静かに悪化する。
だが、治療はそれに追いつかない。
肺は白く濁り、画像の上でははっきりと変化が見えるのに、
その変化を止める手段がほとんど存在しなかった。
酸素を送っても取り込まれず、
数値はわずかに持ち直しても、すぐに崩れる。
説明する言葉はある。
だが、それを伝えた先で何かが変わることはなかった。
患者も、家族も、理解はする。
それでも納得はしない。
その間に、次の患者が同じ経過を辿る。
見送る数が増えるたび、限界だけがはっきりと形を持っていった。
説明する言葉はある。
だが、それだけだった。
見送る数が増えるたびに、限界が積み重なっていった。
隔離は必要だ。
だがそれは第一手でしかない。
その先がある。
だが、その先を語る言葉がこの場にはない。
概念がない。
理解の土台がない。
説明すれば異端になる。
理解されないことを口に出すこと自体が危険だ。
校理は静かに目を伏せた。
一方で、左副承旨もまた別の焦燥を抱えていた。
速水としての感覚が強く警鐘を鳴らす。
早すぎる。
この段階で三地域同時発生。
偶然ではない。
物流。
人の流れ。
情報の断絶。
すでに何かが動いている。
隔離だけで止まるなら問題は単純だ。
だが現実は違う。
この男もまた、別の光景を思い浮かべていた。
呼ばれるのは、すでに戻らない局面がほとんどだった。
挿管の判断は遅らせられず、
鎮静の量も、呼吸器の設定も、その場で最適を選び続けるしかない。
手順は正しい。
どの処置も、教科書通りに行われている。
それでも結果は伴わない。
一人の状態を安定させるために時間を使えば、
別の患者の状態がその間に崩れていく。
優先順位を決めること自体が、すでに選別になっていた。
手は足りない。
時間も足りない。
判断だけが積み重なっていく。
そして最後に残るのは、
誰を先に諦めたかという記録だけだった。
政治の言葉に置き換えれば、過剰な警戒として退けられる。
会議は続く。
陽漢を守るための方策が並ぶ。
城門の監視強化。
該当地域からの流入禁止。
街道の封鎖。
言葉は整っている。
形式としては正しい。
「まずは隔離だ」
誰かが言う。
多くがうなずく。
異論は出ない。
出せない。
世子はゆっくりと息を吐いた。
今はそれしか選べない。
あの時も、同じだった。
その現実を受け入れるしかない。
校理も、左副承旨も、同じ結論に至っている。
だが同時に理解している。
それだけでは足りない。
誰もがそれを感じている。
だが誰も口に出さない。
口に出せない。
言葉にすれば、責任が生まれる。
説明できなければ、疑念だけが残る。
だから沈黙する。
便殿の外は静かだった。
まるで何も起きていないかのように、朝の空気が流れている。
陽漢はまだ安全だ。
まだ死者はいない。
だからこそ、その静けさが異様だった。
嵐の前の無風。
何も動いていないようで、すでにすべてが始まっている。
三人はそれぞれ、胸の奥に同じものを抱えていた。
口に出してはいけないもの。
新型ナルコラウイルス。
その名がここで語られる時は、すでに遅い。
だからこそ、今は沈黙する。
沈黙のまま、備える。
誰にも共有できない理解を、それぞれが胸に抱えたまま。
便殿の空気は重く、そして静かだった。




