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鏡の王宮、眠る身体、動く身体 ーー体が動く間、別の名が呼ばれるーー  作者: 明日葉


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第73話 沈黙の先にあるもの

二人は弘文館へ入った。


昼であるにもかかわらず、建物の奥へ進むほどに空気は静まり、外界のざわめきが遠のいていく。

紙と墨の匂いがわずかに漂い、足音は床へ吸い込まれるように消える。


学問の場特有の緊張が、声を自然に抑えさせていた。

弘文館校理と左副承旨は、言葉を交わすことなく奥へ進む。


互いに顔を向けることはない。


だが考えていることはほぼ同じだった。


蔵書楼へ続く外の通路の間にある部屋。


すでに人払いが済んでいる場所で、二人は並んで腰を下ろした。


先ほどよりも、さらに言葉は少ない。


事実を追う段階は終わっている。

噂はすでに宮中を一巡し、形を持った。


今から拾い直しても意味はない。


問題は、その先だった。


左副承旨が静かに口を開く。


「さて、見るべきは次の一手ですね」


声は低く抑えられている。


校理はわずかにうなずいた。


「ええ、挨拶そのものではありません」


「出方、ですよね」


「はい」


短い応答だが、意味は十分だった。


挨拶は材料として使われた。

すでに役目を終えている。


同じことを繰り返しても、これ以上の効果は薄い。


注視すべきは、その後の扱い方だった。


風が通り、遠くの木がわずかに揺れる。


校理が続ける。


「世子嬪が態度を変えるかどうか、それが分岐になります」


左副承旨が頷く。


「変えれば流れは沈静化する、変えなければ意図があると見られる」


「そして意図があると見なされれば、必ず裏を探られます」


校理の声は平坦だった。


左副承旨は袖の中で指を組む。


「国舅が動くかどうかも見ものです」


「通常なら、ここで調整が入ります」


校理の視線は庭へ向けられている。


「圧をかけるか、側室候補を下げるか、あるいは別の話題で流れを変えるか」


「しかし動きがありません」


「ないということは・・・・」


二人の視線が同時に戻る。


「様子見か・・・・」


「あるいは想定外」


校理はそう結論づけた。


その言葉が落ちたあと、しばらく沈黙が続く。


想定外という言葉は、この場では軽くない。

制御の外にあるものが存在するという意味を含む。


それは最も扱いにくい。


左副承旨が、ゆっくりと問いを変える。


「では世子嬪自身はどう見ます」


校理は即座に答えた。


「暴れない、被害を出さない、規則を守る」


「奇行は残すが罪にはならない」


「感情を出しているようで、境界は越えない」


整理は明確だった。


左副承旨は声を少し落とす。


「注意すべきは、すべてをやめる瞬間・・・・です」


校理の動きが止まる。


その指摘は核心だった。


「同意します」


「暴れる者が急に静かになれば、周囲は成長と解釈します」


「ですが本当に見るべきは、その後です」


校理の声は冷静だった。


「静かになったあと、何を選ぶか」


沈黙が落ちる。


風が一度強く吹き、衣の端を揺らした。


世子嬪が棒を振るのをやめたとき。

奇行をやめ、完全に礼法に収まったとき。


その時こそ、本質が露わになる。


左副承旨が言う。


「側室候補が耐えられなくなる可能性もあります」


「ええ、抑えた感情ほど歪みます」


「次に動くのはどちらか」


「どちらでもない」


校理が少し間を置く。


「第三者?」


噂は中立ではない。


必ず誰かが利用する。


左副承旨は静かに息を吐いた。


「結局、見るべきは言葉ではありません」


「沈黙です」


校理が応じる。


「動きではなく、動かない理由」


ここで、左副承旨はゆっくりと長く言葉を置いた。


「発せられた言葉よりも、発せられなかった沈黙の方が

  周囲の判断を誘導し結果として場の均衡を崩す要因となることが多です」


校理はわずかに目を細める。


「沈黙が続くことで各々が解釈を補い

  それぞれの正しさを持ち寄ることで

  噂は拡張し統制を離れていく構造になります」


さらに言葉が重なる。


「規則を守る、という単純な行為が

  結果として他者の逸脱を際立たせる以上

  それはすでに意図と同等の効果を持つと見るべきでしょう」


左副承旨は頷いた。


「しかもその効果は・・・・

  発信者の意思と無関係に

  持続するため止めるには

  別の強い要因が必要になります」


校理は静かに言う。


「ですがその要因が現れない限り、流れは自然に収束しません」


さらに続ける。


「均衡は常に静かな形で崩れ

  その崩壊が認識されるのは

  すべてが終わったあとであるというのが

  宮中の常でしょう」


左副承旨は短く息を吐いた。


「厄介です」


校理は小さくうなずく。


「ええ、そして面白くもあります」


一瞬だけ空気が変わる。


観察者としての興味が、わずかに混じった。


左副承旨がぽつりと漏らす。


「挨拶ひとつでここまで盤面が動くとは思いませんでした」


校理も同意する。


「形が正確すぎたのです、だから差が際立った」


二人は視線を交わさない。


だが結論は同じだった。


この流れは偶然ではない。


そしてまだ終わっていない。


校理が静かに言う。


「むしろ始まったばかりです」


左副承旨も同じようにうなずく。


ここには誰もいない。


だが空気だけは確実に動いている。


二人は同時に立ち上がる。


これ以上言葉は不要だった。


すでに予測は立った。


あとは見極めるだけだ。


どちらが先に沈黙を破るのか。


あるいは誰が沈黙を利用するのか。


足音を立てずに歩き出す。


弘文館の静けさは変わらない。


だがその静けさの下で、確実に何かが進んでいることを、二人は理解していた。

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