第71話 その後の沈黙
世子嬪が退出したあとも、部屋にはしばらく沈黙が残った。
扉が閉じる音は小さかったが、その余韻だけが妙に長く続く。
さきほどまでそこにいた気配だけが、まだ室内のどこかに留まっているようだった。
大妃は卓に置かれた茶へ手を伸ばしかけ、途中で止めた。
湯気はもう細く、香りも弱い。
指先が茶碗の縁に触れることなく戻る。
飲むほどでもない、と判断したのだろう。
向かいには国舅が座していた。
娘が世子嬪となったことで王家の外戚となり、国舅となった男は、さきほどから姿勢ひとつ変えない。
腕を組むでもなく、ただ静かに視線を落とし、余計な動きを見せなかった。
大妃が先に口を開いた。
「改めよと言われて、あれか」
低く落ちた声には呆れが混じっていた。
怒気ではない。
だが軽い感想でもない。
「極端すぎるとは、思わぬか?」
国舅はすぐには答えず、ひと呼吸置いてから口を開く。
「思います」
返答は即座だった。
だがそこで終わらず、わずかに言葉を足す。
「ただ、それだからこそ民娥でございます」
大妃はゆっくりと目を閉じた。
その答えがあまりにも自然で、否定しにくい。
行いを改めよと言われ、穏やかになれでもなく、控えよでもなく、礼法の形をそのまま実行する。
加減を挟まず、教えられた形を正面から置く。
融通が利かない。
だが迷いもない。
結果として目立つ。
昔から変わらぬところだった。
「中身が変わったとは思えぬな」
大妃の声は小さい。
国舅はわずかにうなずく。
「変わったのであれば、もっと賢く隠すでしょう」
「違いない」
大妃は背もたれへ体を預けた。
疲れが見えるほどではないが、わずかに肩の力が落ちる。
「困ったものだ」
「挨拶の件にございますか」
「それだけではない」
大妃は目を開け、国舅を見る。
「行いを改めよと言われて、正室として正しく振る舞うことを選んだ」
「はい」
「つまり本人にそのつもりがどこまであろうと、結果としては相手を逃がさぬ形になった」
国舅は否定しなかった。
「自覚は薄いでしょうが、礼の形がそのまま差になりました」
「唐順希の礼だけが浮いた」
「はい」
短い応答の後、また静けさが落ちる。
大妃は香炉の煙を見つめながら言う。
「何も言わぬ方が恐ろしく見える」
「声を荒げれば、まだ単純です」
「だが今回は違う」
「正しい形だけを置きました」
その言葉に、大妃の眉がわずかに動く。
まさにそこだった。
世子嬪は何も崩さなかった。
だからこそ、相手の崩れだけが残る。
宮中ではその差がよく響く。
「唐順希も、あれでは苦しいな」
大妃の言葉は静かだった。
責めるというより、見通しを確かめる響きに近い。
国舅は少しだけ視線を上げた。
「立場が変われば、礼の重さも変わります」
「唐家はその重さをまだ受けきれておらぬか」
「急には変わりませぬ」
「特に、自尊心が高すぎるものは。」
答えは冷たくもなく、情も混ぜない。
唐順希の家門、孤峯唐氏は、錦城の家とは全く関係のない家門であり、また国舅率いる派閥に属する家門でもない。
今ここで国舅が直接どうこう言う立場ではない。
だからこそ言葉も慎重だった。
「耐えられるか」
大妃の問いは短い。
だが意味は広い。
今後の宮中。
立場の差。
噂の増え方。
その全てを含んでいる。
国舅は少し間を置いた。
「耐えるかどうかは、本人次第でしょう」
「冷たいな」
「他家の娘に、私が言葉を足しすぎれば別の波を呼びます」
そこには線引きがあった。
外戚となった今、余計な一言はすぐ別の意味を持つ。
唐家へ圧をかけたと受け取られれば、それ自体が新しい噂になる。
「では見ているだけか」
「見ておくべきです」
国舅の声は低い。
「礼を覚えるか、意地を優先するか。それはその者自身が宮中で選ぶことでございます」
大妃はわずかに眉をひそめる。
「手厳しいな」
「境遇が違えば、助言すら重荷になります」
切る気か。
そう問う代わりに、大妃はしばらく沈黙した。
その意味を国舅も理解しているようだった。
だが先に言葉を継がない。
大妃は深く息を吐いた。
「昔からそうだな、そなたは」
「失敗を前提に動かぬだけでございます」
「それは誇りか」
「癖です」
返しは淡々としていた。
生き残るための計算を誇りとは言わない。
そういう種類の男だった。
再び室内が静まる。
外では風が庭木を揺らし、枝の影が障子へ薄く映る。
大妃はしばらくその影を見ていたが、やがてぽつりと漏らした。
「宮中に入ってからの民娥は・・・・」
「相変わらず扱いづらい」
国舅の口元がほんのわずかに動く。
笑ったとまでは言えない。
だが否定はしなかった。
「ええ」
短く受けた後で続ける。
「ただ、置く場所を誤らねば働きます」
その一言で空気が変わる。
大妃は国舅を見る。
「駒と言うか」
「盤の上に出れば、自然に目を集めます」
否定できない言い方だった。
挨拶ひとつでここまで宮中を動かした。
しかも本人は、本気で礼を正しただけと思っている。
そこに計算が薄いからこそ厄介だった。
無自覚であるほど、周囲は意味を足す。
大妃は小さくうなずいた。
「目が離せぬな」
「ええ」
国舅も静かに同意する。
「世子嬪、民娥はしばらく宮中の空気を変えるでしょう」
言い切った後、余計な飾りはない。
だがその言葉は静かに重かった。
大妃はもう冷えた茶へ再び手を伸ばし、今度は口をつける。
温度は落ちている。
それでも一口だけ含み、ゆっくりと置いた。
「面白い、では済まぬかもしれぬ」
「それでも目を逸らせば、さらに形を変えます」
「ならば見ておくしかない」
「はい」
その短いやり取りのあと、また沈黙が戻る。
先ほど民娥がいた場所にはもう誰もいない。
だが、その残した言葉だけがまだ部屋にあった。
行いを改めよ。
その結果が、正しすぎる礼。
大妃は静かに目を伏せる。
宮中では、ときに正しさが最も扱いづらい。
そのことを、あらためて思い知らされる午後だった。




