第70話 改めよと言われたので
呼び出しは、思っていたより静かだった。
大妃のもとへ。
その短い伝達だけで、世子嬪である民娥には十分だった。
何について呼ばれるのか、わざわざ説明されなくても分かる。
挨拶の件。
あの場で交わされた礼。
順希の浅い所作。
それに対して自分が返した、寸分違わぬ正しい礼。
噂はもう宮中を巡っている。
ならば遅かれ早かれ、この場は来ると思っていた。
歩きながら、民娥の頭は妙に冷えていた。
事実確認。
あるいは、もっと丁寧な形をした取り調べ。
どちらにしても、逃げ道はない。
今さら曖昧に誤魔化しても意味はないし、余計な言葉を足せば枝葉が増える。
問題は、どこまでを自然に見せるかだった。
自分の意思でやったと取られれば、終わる。
あえて相手を追い詰めた。
そう判断されれば、世子嬪になったばかりの立場で余計な色がつく。
そしてここは宮中だ。
一度ついた色は簡単には落ちない。
切られる。
言葉としての処分か。
立場としての整理か。
あるいはもっと別の形か。
どれにしても先は細くなる。
民娥は歩幅を崩さず進む。
付き従う女官たちも余計な声を立てない。
さて。
どう言うか。
正室としての礼をした。
礼法通り。
身分通り。
それは事実だ。
だが事実だけでは足りない。
その事実がどこから出たのかまで問われる。
大妃は愚かではない。
目の前の形だけで納得する相手ではない。
長い年月を宮中で権力の座についていた、老獪でしたたかな生き物だ。
そしてあの場には、国舅もいるだろう。
民娥の父。
娘が世子嬪となったことで王家の外戚となり、国舅となった男。
今の宮中で、その沈黙すら意味を持つ存在だった。
失敗という仮定を持たない。
そういう種類の人間だと、民娥の中の美奈は判定した。
その時だった。
ふと、記憶が浮かぶ。
お祓いの前の父という人の声。
行いを改めよ。
改められたなら、願いを聞いてやる。
そこまで思い出した瞬間、民娥の内側で何かが噛み合った。
ああ。
あった。
そんなことを確かに言われた。
当時は半ば聞き流していた。
だが今は使える。
しかも不自然ではない。
民娥は顔を変えずに歩きながら、心の中で静かに笑う。
使える。
大妃の部屋へ通される。
中は通り静かだった。
香は重く、窓の外の明るさだけが遠い。
大妃が正面に座している。
そして少し手前の右側に国舅がいる。
衣の皺ひとつなく、視線だけが静かに鋭い。
感情は読めない。
民娥は所定の位置で礼を取り、座した。
「呼ばれた理由は分かっておろう」
大妃が先に切り出す。
「はい」
民娥は素直に答えた。
「挨拶について、かと存じます」
「そうだ」
短い一語の後、大妃の目が動かない。
「なぜ、あのような挨拶をした」
問いは単純だった。
だが逃げ道はない。
民娥はすぐには答えない。
焦って返せば軽くなる。
考えている間を、きちんと置く。
視線を少し伏せ、息を整え、言葉を選ぶ。
そして静かに口を開いた。
「お祓いの前に」
大妃の眉がわずかに動く。
「父より申されました」
その瞬間、国舅の視線がわずかに変わった。
ほんのわずかだったが、民娥は感じた。
「行いを改めよ、と・・・・」
大妃が浅く息を吐く。
「それで」
「改められたなら、願いを聞いてくださると・・・・」
室内に沈黙が落ちる。
重い。
だが予想の内だった。
民娥はそのまま続ける。
「ですので、私は正室としての行いを学び直しました」
「学び直した?」
「はい」
大妃の声にまだ温度はない。
民娥はさらに言葉を重ねた。
「側室候補へ向ける礼。身分を曖昧にせず、礼法通りに振る舞うこと。そうあるべきと考えました」
一つずつ区切って言う。
急がず、丁寧に。
論理だけは崩さない。
国舅が低く息を吐いた。
「なるほど」
声は小さいが、室内では十分響く。
大妃はこめかみに指を添えた。
「そなたは」
そこで一度言葉を探すように止まり、やがて率直に続けた。
「本当に極端だな」
民娥は内心だけでうなずく。
(そう・・・・思うでしょうね。)
だが顔には出さない。
「改めよと言われて、礼法の形をそのまま置くとは」
「ご不快でございましたか?」
恐る恐るという形を崩さずに返す。
大妃は民娥をじっと見る。
怒ってはいない。
だが呆れている。
その色ははっきり分かった。
「不快というより」・・・・
そこで一度言葉が止まる。
「やはり民娥だ」
その一言で、室内の空気が締まった。
確認だった。
中身が変わったなどとは思っていない。
奇妙な極端さも、急に礼法を徹底するところも、全部まとめて民娥という判断になる。
国舅も静かにうなずく。
「改善しようとして、余計に目立つのがこの子です」
娘を庇うでもなく、突き放すでもない。
ただ事実のように置く。
それがかえって自然だった。
民娥は頭を下げる。
よし。
通った。
「下がりなさい」
大妃が言う。
「今後は、」
一瞬だけ言葉を切る。
「ほどほどを覚えよ」
その一語が妙に重かった。
民娥は深く礼を取る。
「肝に銘じます」
退出を許され、静かに立ち上がる。
後ろを向くまで、姿勢は崩さない。
外へ出て、扉が閉まった瞬間だった。
胸の内で、大きく息が抜ける。
はあ。。。。
緊張した。
顔には出さない。
だが内側では盛大だった。
父という人の言葉、使える。
願いを聞く云々はまだ先だ。
そもそも本当に聞くかどうかも怪しい。
だが今日に限っては十分だった。
少なくとも今、大妃の前で確認された。
民娥であること。
極端で、余計に目立ち、真面目にやるほど妙な方向へ行く。
その枠に入っている限り、安全だ。
そしてそれは今の自分にとって何より大きい。
女官たちが少し後ろで距離を取る。
誰も余計なことは聞かない。
外の風は少し冷たく、庭の木が静かに揺れていた。
宮中では、正しい礼ひとつで人が呼ばれる。
言葉より先に形が残るからだ。
民娥は歩きながら、次は何をほどほどにすべきかと考えた。
だがすぐに一つ結論が出る。
たぶん、それは難しい。




