第68話 挨拶ひとつで、噂は育つ
世子嬪となってから、宮中の空気は目に見えて変わった。
向けられる視線の数が違う。
集まり方も違えば、離れる速さまで違う。
誰がどこで見ているか分からず、何をしていても必ずどこかに目がある。
民娥は、その変化をすでに十分すぎるほど理解していた。
ただ歩いているだけでも、立ち止まるだけでも、そこに意味を探そうとする者がいる。
衣の揺れ、首の角度、誰に先に目を向けたか。
その程度のことでも、後から好き勝手に形を変えて語られる。
だからこそ今も、外を歩く速度は崩さない。
急がず、遅れず、世子嬪としてもっとも無難に見える歩幅を守る。
隣にはソヨンが付き従い、少し後ろに女官たちの気配が続く。
衣擦れの音は控えめで、誰も余計な声を立てない。
その静かな流れの先で、民娥の目がわずかに止まった。
少し前方。
外へ続く通路の先から歩いてくる姿がある。
見慣れた輪郭だった。
唐順希。
その名を頭の中でなぞった瞬間、口元が緩みそうになる。
だがもちろん、顔には出さない。
むしろ視線を一度だけ外し、何事もないように前へ戻した。
内心だけで、小さく呟く。
来た。
そして次の瞬間には、もっと率直な感想が浮かぶ。
これは、たぶん面白くなる。
抑えたはずのいたずら心が、静かに頭をもたげる。
昨日までなら少し迷ったかもしれないが、今は違う。
相手がどの程度まで自分を認めていないのか。
どれだけ表を整えられるのか。
それを確かめるには、ちょうどいい距離だった。
民娥は視線だけでソヨンへ合図を送る。
余計な表情はない。
だが意味は十分伝わったらしい。
ソヨンはすぐに口を開いた。
「お嬢様、いえ、世子嬪様。外では決して取り乱されませんようお願いいたします」
声は控えめだが、きちんと聞こえる大きさだった。
民娥はわずかに眉を動かしただけで応じる。
そのまま進む角度をほんの少し変えた。
自然に見える程度。
だが確実に、順希の正面へ出る位置になる。
偶然に見せかけるには十分だった。
心の中でだけ、小さく拳を握る。
さて。
どんな顔をするだろう。
楽しみ半分。
確認半分。
世子嬪になった今、相手がどう動くか。
そこには今後を読む材料がある。
距離が縮まる。
順希もこちらに気づいた。
そしてその瞬間、ほんのわずかに足が止まりかけた。
目が揺れる。
呼吸が浅くなる。
ほんの一瞬だけだが、民娥はそれを見逃さなかった。
ああ、今のは確かに動いた。
驚きか。
焦りか。
それとも、認めたくない現実への反射か。
だが次の瞬間には、順希の表情は整えられていた。
見事なくらい速い。
嫉妬も怒りも、表へ出る直前で押し戻した顔。
薄い膜をかぶせたように、静かな形へ戻す。
隠す意識はあるらしい。
そこは理解できた。
ここで露骨に崩れれば、自分が不利になると分かっているのだろう。
だが問題は、その先だった。
順希は立ち止まり、礼を取った。
しかしその動きは、変わっていない。
以前と同じだった。
側室候補が世子嬪へ向ける礼ではない。
深さが足りない。
角度が違う。
視線の落とし方も違う。
同格か、それ以下へ向ける形。
民娥の内心は驚くほど冷えていた。
出た。
そう思っただけで、怒りは湧かない。
むしろ、予想通りという感覚の方が強い。
ここで声を荒げる必要はない。
問いただす必要もない。
むしろ何も言わず、正しい形を返す方がよほど効く。
民娥はすぐに礼を返した。
学んだ通りに。
寸分違わず。
世子嬪が側室候補へ向ける礼。
深さ。
首の角度。
袖の位置。
息を止める長さ。
どこにも非がない。
教え込まれた形を、そのまま静かに置く。
逃げ道を残さない礼だった。
順希はそれを受ける。
受けたはずだった。
だが顔を上げた後、その態度があまりにも分かりやすかった。
目に不満が残る。
口元が固い。
そして去る時の動きに、妙な高さがある。
挨拶を終えたのはこちらなのに、まるで自分が上であるかのように背を向ける。
視線も露骨だった。
一瞬だけ向けられた横目に、抑えきれない苛立ちが混じる。
民娥はその背中を黙って見送った。
なるほど。
確信が一つ増える。
噂を育てているのは自分ではない。
自分は何もしていない。
暴れてもいない。
声も荒げていない。
嫌味すら言っていない。
ただ正しい礼を返しただけだ。
それでも周囲が何かを感じるなら、原因は別にある。
少し離れた位置にいた女官たちの空気が、微妙に固まる。
誰も顔を上げない。
だが見ていたことは分かる。
そして見たものは、必ずどこかへ伝わる。
自覚はないのだろうか。
あるいは、分かっていても止められないのか。
嫉妬。
意地。
認めたくない心。
それらが混ざると、人は意外なほど所作に出る。
隠しているつもりでも、礼の深さひとつで崩れる。
民娥は内心で小さく肩をすくめた。
そりゃ噂にもなる。
世子嬪になってからというもの、宮中では何かにつけて自分の名が動く。
だが同時に、順希の名もよく耳に入る。
なぜそうなるのか、今なら少し分かる。
何もしない方が、むしろ相手の輪郭をはっきりさせる。
今日もまた、静かに一つ種が落ちた。
蒔いたのは自分ではない。
唐順希自身だ。
ソヨンが横でわずかに息を吐く。
「見事に崩れませんでしたね」
小さな声だった。
民娥は前を向いたまま返す。
「崩れたのは向こう」
「はい」
短いやり取りだけで十分だった。
後ろでは女官たちの足音が揃う。
空は明るく、風はまだ冷たい。
宮の一日は続く。
だが先ほどの数息だけで、また一つ流れが変わる。
民娥は何もなかった顔で歩き続ける。
正しい速度で。
正しい姿勢で。
そして内心では、次にどこで何が崩れるかを静かに見ていた。




