第67話 裏の不機嫌三人三様
受賀と朝見礼は、滞りなく終わった。
少なくとも、表向きにはそう見えた。
誰の目から見ても流れは乱れず、所作は正しく、声も動きも決められた形を外していない。
記録に残るなら、おそらく何の問題もない一日として処理されるだろう。
だが、その場に立っていた者たちにとっては、ただ整っていたという一語では片づけられない疲労が、確かに残っていた。
世子と世子嬪。
二人は並び、同じ方向を向き、同じ角度で礼をし、同じ歩幅で進んだ。
袖の揺れも、頭を下げる深さも、横から見れば申し分ない。
誰が見ても正しい二人だった。
視線を集める立場として、必要な静けさも保っていた。
そして最後の動線で、自然に分かれる。
そこでほんのわずかに視線が交わった。
意味はない。
確認でも合図でもない。
ただ、この先は別に動くという事実をなぞっただけだった。
民娥は、そのまま世子嬪として次の工程へ向かう。
付き従う女官の数は多く、歩くたびに後ろで衣擦れの音が重なる。
声を潜めた指示が飛び、次に向かう場所、次に替える衣、次に会う相手が途切れなく差し込まれる。
本当に忙しい。
内心で、民娥は盛大に舌打ちした。
衣装替え。
挨拶。
報告。
確認。
また移動。
また礼。
また座る。
また立つ。
笑顔。
沈黙。
うなずき。
控えめな一歩。
意味のない所作が、意味ありげな顔をして延々と積み重なっていく。
馬鹿馬鹿しい行事だらけだと、心の中で何度目かの評価を下す。
だが当然、それを表へ出すわけにはいかない。
民娥は、それらしい速度で歩く。
それらしい角度で首を傾げる。
それらしい疲労をにじませる。
完璧ではない。
だが疑われない程度には十分だった。
むしろ完璧すぎれば不自然だと、今は分かっている。
初夜より、こっちの方がよほど消耗する。
そう思った瞬間、腰の奥に鈍い重さが走った。
腹。
昨夜の百回が、きっちり残っていた。
動くたびに下腹の奥が引きつる。
深く息を吸うと、その内側にじわりとした熱が戻る。
表では姿勢を保てる。
歩くことも礼をすることもできる。
だが、少し深く膝を折るだけで、筋肉が静かに抗議してくる。
やりすぎた。
昨日の自分へ、心の中で冷たく言う。
百回を提案したのは自分だ。
外の耳を欺くためとはいえ、あの数は少し多かったのではないかと今になって思う。
特に立ち上がる瞬間が地味にきつい。
下から持ち上げるように力を入れるたび、腹部が鈍く重い。
それを顔に出さぬようにするのがまた面倒だった。
なぜ初夜に腹筋なのか。
誰にも言えぬ文句が、胸の内に浮かぶ。
しかも掛け布団を抱えたまま眠ったせいで、朝起きた時には体がさらに固まっていた。
伸ばそうにも女官が入ってくる。
ゆっくり解す時間もなく、そのまま衣を重ねられた。
形式の暴力。
今の民娥には、それがもっとも正確な言い方に思えた。
誰もが忙しく動く中で、自分だけが内心でため息を重ねる。
しかも、そのたびに腹が少し痛む。
そこへさらに歩幅を合わせろ、首を上げすぎるな、袖を乱すなという声が重なる。
心の中でまた文句が増えた。
昨夜の世子も、よく平然としていたものだ。
これで今日、涼しい顔で、行動しているのならだいぶ腹が立つ。
そう思いながら、次の礼へ向かう。
一方、その頃。
世子もまた、静かな顔の下で別の疲労を抱えていた。
受賀の場で並び、礼を取り、歩く。
表情は変えない。
視線も必要以上に動かさない。
すべて予定通り。
だが、腕が重い。
昨日の腕立て伏せが、想像以上に効いていた。
袖の下で肩がじわりと張る。
肘を曲げるたび、上腕に鈍い熱が戻る。
とくに礼の角度を保ったまま静止する時間が妙に長く感じる。
よりによって初夜に百回。
心の中で短く吐き捨てる。
自分から腹筋を命じた以上、文句を言う筋ではない。
だがそれでも、あの場で腕立て伏せ百回という発想に素直に乗ったことを少しだけ悔やんだ。
八十を越えた辺りで腕がかなり重くなっていたことを思い出す。
最後の十回など、暗闇でなければ顔に出ていたかもしれない。
しかも今朝は、衣を整える際に腕を上げるだけで肩の奥が引きつった。
袖を通す時に一瞬だけ動きが止まり、内官に不思議そうな目を向けられたのを思い出す。
受賀の礼で腕を前へ置く。
その形を保つだけで、上腕にじわりと張りが広がる。
腹筋百回を言い返した自分も、なかなか幼稚だったかもしれない。
だが、あの時はそれがもっとも公平だった。
片方だけが苦労するのは違う。
そう思った結果だ。
隣に立つ民娥は、顔色ひとつ変えない。
だが歩き出しのわずかな動きで、下腹に力を入れているのが見えた。
やはり効いている。
そこだけ見て、内心で少しだけ納得する。
お互い様だ。
視線はすぐ前へ戻す。
余計に見れば意味を持つ。
今は何も共有しない方がいい。
形式を終わらせることだけを考える。
そして決められた最後の場所で二人は分かれた。
その一瞬だけ視線が交わる。
意味はない。
だが互いに、同じことを思っていた。
昨夜の百回は余計だった。
それでも言葉にはしない。
世子はそのまま次の挨拶へ進む。
待つ者たちの顔。
祝意を装う声。
それぞれの立場で意味を含む視線。
誰がどこまで本心で祝い、誰が形だけ整えているかを拾いながら、世子は歩く。
だが腕は重い。
袖の中で指先をわずかに開き、閉じる。
血を回すようにしながら、顔だけは静かに保つ。
まったく、初夜の翌朝に筋肉痛とは。
その言葉が一瞬頭をよぎり、自分で少し呆れた。
もし誰かに知られれば、あまりに滑稽だ。
嘉礼の翌朝、世子と世子嬪がそれぞれ筋肉痛で無言の礼をしているなど、誰も想像しない。
一方で。
唐順希の部屋は静まり返っていた。
人払いをした室内。
香も焚かれていない。
音を立てるものは何一つなく、風すら入りにくい。
順希はそこに一人で立っていた。
立ったまま動かない。
座ることすらできなかった。
終わった。
その言葉が胸に落ちた瞬間、内側がひどく軋んだ。
受賀も朝見礼も、本来なら自分が立つべきだった場所。
自分が笑い、
自分が呼ばれ、
自分が正しい相手として並ぶはずだった。
それなのに。
あの女。
錦城金氏の家門の女。
奇行を繰り返し、棒を振り、噂を絶やさず、それでも立っている。
知性も品位もないと、誰もが囁いていた女。
なぜ。
順希の感情は静かではなかった。
だが爆発もしない。
内側で複雑に絡まり、どこへ出せばよいか分からぬまま渦を巻く。
悔しさ。
屈辱。
焦り。
そして強い拒絶。
私は間違っていない。
そう何度も言い聞かせる。
耐えてきた。
抑えてきた。
正しくあろうとしてきた。
それなのに選ばれなかった。
理由は分かっている。
家門だ。
錦城金氏。
それだけで覆る。
順希は拳を握る。
爪が食い込む。
だが声は出さない。
物も壊さない。
心の中では何度も同じ言葉が繰り返される。
気に入らない。
なぜ、今あの女は宮中にいるのか?。
その気持ちだけが強く残る。
しかも今朝の礼の場では、自分は最初からいないものとして扱われる。
その不在が、かえって事実を強く突きつける。
同じ宮の中で、
同じ空気を吸いながら、
まったく違う位置に置かれた二人。
民娥は腹の奥の鈍い痛みを隠しながら、礼を重ねる。
世子は腕の重さを隠しながら、祝意を受ける。
順希は誰にも見せぬ部屋で、静かな怒りを抱える。
それぞれが、それぞれの顔を貼りつけたまま、今日という日をやり過ごしていた。
受賀と朝見礼は終わった。
だが、本当の緊張はまだ始まったばかりだった。
形だけ整う朝の下で、
誰も口にしない疲労と不満だけが、静かに積み重なっていた。




