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鏡の王宮、眠る身体、動く身体 ーー体が動く間、別の名が呼ばれるーー  作者: 明日葉


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第66話 闇の中の合意

二人とも、杯を手に取ったまま止まっていた。


酒は揺れない。

薄い灯りの下で表面だけが静かに光り、そこに映るのは向かい合う二人の影だけだった。

動けば波が立つはずなのに、どちらもほとんど指先を動かさない。

だからこそ、部屋の中にある時間そのものが止まったように感じられる。


世子は考える。


飲めば、進んだことになる。


儀礼としては自然だ。

初夜の酒を交わすことに不自然はない。

だが、そこから先に続く意味まで周囲は勝手に読む。

ひとつの所作が、そのまま次の段へ繋がる。

それが面倒だった。


民娥もまた考えていた。


飲まなければ、不自然すぎる。


手に取っておいてまったく口をつけないのも、また不自然だ。

外では誰かが気配を殺しているはずだった。

襖の向こう、壁の向こう、直接見えなくても、この部屋の様子を拾おうとする耳は必ずある。


どこまでが見せる必要のある行為か。

その境目を、二人とも測っていた。

沈黙は長く続いた。


酒の匂いだけが静かに漂い、灯りの火がかすかに揺れる。

揺れているのは火だけで、人の動きはない。


民娥はわざと視線を落とし、杯の中を見た。

このままどれくらい持つのだろうか、と考える。

時間を稼ぐだけなら沈黙は有効だが、永遠には続けられない。


世子は浅く息を整える。

焦る必要はない。

まだ時間は味方だ。

どちらかが不用意に崩れなければ、この場は保てる。


同じ部屋にいて、

同じ状況にいて、

同じ目的を共有している。


それでも、それを言葉にする必要はなかった。

共犯であることは、沈黙だけで十分だった。


灯りがまた揺れる。

杯はまだ唇に触れない。

夜は始まったばかりで、何も動いていない。

やがて、その沈黙を破ったのは民娥だった。


ふっと立ち上がる。

衣がわずかに擦れる。

それだけで、世子の視線がごくわずかに反応した。


民娥は何も言わず、静かに距離を詰める。

床を踏む足音すら小さい。

近づく動きに迷いがない。


そのまま世子の耳元へ顔を寄せた。


「女として狂わせる気ですか」


声は低く、息が耳にかかるほど近い。

そこでほんのわずかに間を置き、さらに落とす。


「それとも、殺す気ですか」


世子は驚きを表に出さなかった。

目を伏せたまま、短く返す。


「どちらでもない」


迷いのない声だった。


民娥の口元がわずかに上がる。


「では、利害一致ですね」


それだけで十分だった。

問いではなく確認。

そして確認が通れば、それ以上はいらない。


民娥は身を離すと、今度は首元へ手をやった。

重い飾りがまだ頭に残っている。


「ものすごく重い」


小さく言って、鬱陶しそうに飾りを揺らす。


「世子様、取ってください。首が折れそうです」


命令でも懇願でもない。

ただ事実だけを差し出す声だった。


世子は一瞬だけためらう。

だが拒む理由もない。

立ち上がり、静かに近づく。


距離が縮まる。

指先が慎重に髪へ触れる。

飾りを外す手つきは丁寧だった。

音を立てず、壊さず、必要以上に触れない。

その所作は無駄がない上に美しい。


重みが外れた瞬間、民娥は小さく息を吐いた。


「軽い」


外された飾りが脇へ置かれる。

その腕を、民娥はためらいなく掴んだ。


ぐい、自分のほうへと引く。


世子の体が傾く。


床へ重心が寄る。

そのまま民娥は横になる。


「灯り」


短い一語。


世子は意味を理解したように振り返り、灯りを落とした。

闇が降りる。


部屋から色が消え、輪郭も曖昧になる。


肩書も衣の華やかさも、暗さの中で急に意味を失う。


その闇の中で、民娥が低く言った。


「まず動く必要があります。腕と爪先を床につけて、腹は床から離してください」


世子は一瞬黙った。

闇の中でも、その顔がわずかにしかめられた気配が分かる。


「腕の曲げ伸ばしを百回ほど、ゆっくり」

フッ、と鼻で笑う音が返る。


「ならばお前は仰向けになれ」


世子の声も低い。


「膝を軽く曲げ、両腕は頭の下に添えて離すな。上半身をゆっくり上げてからおろせ。足は床につけるな。そちらも百回だ」


条件は対等だった。


民娥は素直に仰向けになり、脚を軽く曲げる。

世子は腕を床につき、姿勢を作る。


一、


二、


三、



十、


外に配慮しながら静かに声を出す。


最初の数十回はまだ余裕があった。


ゆっくりと肘が曲がり、胸が床へ近づき、また上がる。

衣の下で肩が動き、呼吸が少しずつ深くなる。


十一、


十二、



民娥も上半身を上げて下ろす。

足も床にはつけず、少し浮かせている

腹の奥がじわじわ熱を持つ。


五十を過ぎたあたりから、二人とも声が小さくなる。


世子の呼吸が少し荒くなる。

肘を伸ばすたびに肩へ力が集まり、下ろす動きが少しだけ遅くなる。

それでも止めない。


民娥も上半身を上げる角度を保ちながら、呼吸を整える。

腹部の奥が焼けるように重くなり、太腿の付け根まで熱が広がる。

足を床へ落とせば楽になる。

だが落とさない。


外を欺くためでもあるが、途中でやめるのが悔しいという気持ちも少しあった。


七十を越える頃には、衣の内側へ熱がこもる。


息を吐く音が自然に漏れ始める。

外から聞けば、それなりに誤解されるだろう。


その点でも都合がよかった。


八十、


九十、


最後の十回は、数そのものが妙に長く感じられた。


百。


世子が最後の一回を終え、音を立ててうつ伏せのまま倒れ込む。

腕を支えていた力が抜け、肩が重く沈む。


民娥も最後の動きで脚を止め、そのまま全身を床へ落とした。

乾いた小さな音が床に響く。


互いに息が荒い。


暗闇の中で、その呼吸だけが部屋を満たす。


世子の肩はゆっくり上下していた。

腕に残る熱が抜けきらず、指先まで鈍く重い。

床へ伏せたまま首だけ少し横へ向け、呼吸を整える。


民娥は仰向けのまま、腹部に残る震えを感じていた。

脚を上げ続けた腹部がじんと熱を持ち、呼吸を深く吸うたびに筋肉が小さく引きつる。

髪の根元にも汗がにじみ、外した飾りの重みがなくなった首筋だけが妙に軽い。


互いに触れず、視線も交わさない。


これでいい。

これが最適解。


民娥はそう思う。

余計な線を越えず、外へだけ必要な音を残す。


世子もまた、息を整えながら考えていた。


逃げ切れる。

今夜は。


しばらくして、外の気配が少し薄くなる。

耳を澄ませば、襖の向こうで人が動いたようなごく小さな音がした。


世子が低く言う。


「このまま離れて休むぞ」


「ええ」


民娥も短く返す。


それだけだった。


掛け布団は民娥が先に引き寄せる。

ためらいなく体へ巻きつけ、肩まで覆う。


世子は何も言わない。

暗闇の中で距離だけを少し取る。


襖の向こうで、また小さな気配が動き、やがて静かになる。


初夜の部屋には何も残らなかった。


甘い記憶も、熱も、約束もない。


残ったのは、互いに何も踏み越えなかったという事実だけだった。


そして、それこそが今夜の二人にとって、もっとも価値のある結果だった。


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