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鏡の王宮、眠る身体、動く身体 ーー体が動く間、別の名が呼ばれるーー  作者: 明日葉


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第59話 美しい挨拶

正室候補として過ごす一日は、想像していた以上に細かく切り分けられていた。

起きる時刻、身支度の順、食事の前後の所作、声の高さ、目線の落としどころ。

何をするにも先に形があり、その形へ体を合わせることが求められる。

そのどれもが、美奈にとってはひどく息苦しかった。


教える側は真剣だった。

軽い気持ちで済ませている者は一人もいない。

だからこそ余計に、美奈には息苦しかった。

誰もが当然のようにこれを受け入れている。

一つ覚えるたび、次の型が来る。

問い返す余地もなく、まず従うことが先に置かれる。


散歩でさえ例外ではなかった。

外へ出て歩くこともまた学びの一つだと説明された時、民娥の中の美奈は内心で呆れた。

景色を眺めて息を抜く時間ではなく、歩く姿を整える時間だという。

歩幅。

足の運び。

首の角度。

袖の揺れ方。

視線をどこへ置くか。

すべてが観察され、正される。


それだけのことのはずなのに、民娥として歩いている間じゅう、美奈の胸の内には乾いた疲れが積もっていった。

落ちたという池を見に行く。

名目としては、歩く練習を兼ねた外での移動だった。

だが美奈にしてみれば、わざわざ理屈をつけて外へ出ているだけにしか思えない。


馬鹿馬鹿しい。


美奈は、歩き方そのものを意識して生きてきたわけではない。

知識を積み上げることの方が、ずっと価値のある世界にいた。

だから、見え方だけを整えるために時を使う感覚が、どうにも馴染まなかった。

少なくとも、以前の自分はそう考えていた。


だが、ここでは違う。

ここでは見え方がそのまま評価になる。

知っていることより、どう見えるか。

思っていることより、どう振る舞うか。

中身より先に外側が判断され、その外側を整えるために毎日が使われる。

世子の正室候補である以上、それは避けて通れぬ道なのだと女官たちは繰り返した。


美奈には、それが恐ろしくつまらなかった。

一挙手一投足を縛られ、理由も十分に示されないまま、こうしろ、ああしろと積み重ねられる。

正しい形はある。

だが、なぜその形でなければならないのかまでは誰も深く語らない。

先に型を覚えなさい。

意味は後からついてくる。

その教え方が、美奈にはひどく不親切に感じられた。


苦行以外のなにものでもない。


そう思っても、顔には出さない。

今の自分は民娥であり、以前の民娥ほど露骨に荒れて見せる必要もない。

むしろ少し静かになったくらいに留めるべきだ。

その判断があるから、息苦しさも胸の内へ沈めたまま、外では無難に従っている。


池へ続く外の道を、女官たちに付き添われてゆっくり進む。

空は晴れていた。

風は強くない。

枝先がかすかに揺れ、遠くの水面が光を返している。

景色だけ見れば悪くない。

だが足を出すたび、今の歩幅は狭すぎないか、視線は落ちすぎていないかと意識が割かれる。

自由な散歩とは程遠かった。


そんな時だった。

反対側から人影が現れた。


唐順希。


その姿を認めた瞬間、民娥の目がほんのわずかに細くなる。

向こうにも女官が付いている。

こちらと同じく、外での歩行を兼ねた移動かもしれない。

正室候補と側室候補、その一行が外で行き合う形だった。


唐順希は、すれ違う直前で足を止めた。

それから静かに礼を取る。

動きは流れるようで、無駄がない。

見た目だけなら整っている。

誰が見ても、美しい所作と呼ぶだろう。


だがその瞬間、民娥の中の美奈の中で何かが小さな音を鳴らした。


(あれ?)


違和感だった。

曖昧な引っかかりではない。

もっと輪郭のあるものだ。

ついさっきまで退屈さにしか思えなかった礼法の学びが、ここで急に意味を持つ。


(この女、民娥を完全に馬鹿にしてる)


表情に出すことなく、美奈はその結論へ達していた。

唐順希の頭の下げ方。

その角度。

礼を入れる前後の間。

視線を落とす位置。

どれも整っている。

整っているからこそ分かる。

それは正室候補へ向ける挨拶ではない。


側室候補が正室候補へ示す礼は、もう少し深く、もう少し長い。

差はわずかだ。

だが、わずかだからこそ意図が出る。

唐順希の礼は、必要最小限に軽くされていた。


(学習の成果が、こんなところで役に立つとは)


美奈は心の中で冷静に状況を整理していく。

以前にも、民娥と唐順希が外で行き合ったことはあったはずだ。

その時の反応を、周囲の噂や女官の話からなんとなく知っている。

民娥は唐順希を無視した。

目も合わせず、返礼もしなかったらしい。


(理由は、これか)


身分に見合わぬ挨拶をされ、それを感情のまま切り捨てた。

短絡的ではあるが、民娥らしい反応ではある。

言われた通りの礼を覚える気がない女でも、見下されていることくらいは察する。

だから以前は、荒く切り捨てたのだろう。


だが今回は違う。

中身は美奈だ。

しかも今の民娥は、急に善人になるわけにはいかない一方で、以前のように分かりやすく荒れてもいけない。

反応には計算がいる。

少し静かに。

だが、愚かには見せない。

その線を守る必要があった。


付き添うソヨンも、外では流れを切るように動く。

人目のある場所で荒れが大きくならぬように、すでにそう決めてあった。


何もしなければ噂になる。


正室候補が側室候補を無視した。

たったそれだけで話は勝手に膨らむ。

病み上がりでも直っていない。

やはり粗暴だ。

錦城金家の娘は礼も弁えぬ。

そんな尾ひれがいくつもつくだろう。


ならば、やることは一つだった。


丁寧にやる。


しかも、誰の目にも分かるほど丁寧に。

正室候補が側室候補へ返す礼として、申し分のない形で。

いや、少し完璧すぎるくらいでちょうどいい。

そうすれば、非がどちらにあるかは自然に浮かぶ。


美奈は足を止めた。

背筋を伸ばす。

視線を適切な位置へ落とす。

袖の流れを乱さぬよう、動きをゆっくり整える。

学ばされた型を、そのまま最も美しく見える形でなぞる。


丁寧すぎるほど丁寧な挨拶だった。


形としては穏やかで、争いの色はない。

だが中身は違う。

これは譲歩ではない。

正しい序列を、その場で静かに示すための礼だ。

言葉にしないまま、格を見せる。

美奈はそういうつもりで動いていた。


挨拶を終え、ゆっくり顔を上げる。

その瞬間、唐順希の表情がほんの一瞬だけ揺れた。

大きくは崩れない。

さすがにそこは隠す。

だが、完全に無風ではいられなかったらしい。

自分の礼の軽さを、相手が理解した上で返してきたと気づいたのだろう。


それでも唐順希は何も言わない。

こちらも言わない。

外の空気は静かなまま保たれる。

見ている女官たちも口を挟まない。

誰もが何も起きていない顔をして、その場だけは流れた。


だが次に行き合った時も、唐順希の挨拶は変わらなかった。

軽く。

簡素で。

本来あるべき深さに少し届かないまま。

しかも偶然とは思えぬほど同じ調子で繰り返される。


その次もそうだった。


なるほど。


美奈は外を歩きながら、静かに結論を出していた。

この女は変える気がない。

自分が正しいと思っているか、そうでなければ意図してやっている。

どちらにしても、無意識ではない。


民娥はそのたび、同じように丁寧な挨拶を返した。

誰が見ても分かるほど、はっきりと。

こちらは礼を欠かない。

こちらは序列を乱さない。

その上で、相手の軽さだけを浮かび上がらせる。


一度なら偶然で済む。

二度でも見落とす者はいるかもしれない。

だが重なれば、さすがに残る。

挨拶に非があるのはどちらか。

それはもう説明を要しないところまで来ていた。


唐順希が何を考えているのかはまだ分からない。

民娥を露骨に見下しているだけなのか。

あるいは民娥が感情的に噛みつくのを待っているのか。

礼の軽さを続ければ、いずれ元の民娥なら爆発する。

そう踏んでいた可能性もある。


だとすればなおさら、怒らない方がいい。


美奈は胸の内でそう確かめる。

感情のまま返せば相手の土俵に乗る。

だが正しい形だけを返し続ければ、困るのは向こうだ。

こちらが静かであるほど、向こうの軽さは目立つ。

しかも民娥は病み上がりだ。

少し静かでも不自然すぎない。

今はその条件も味方につけられる。


歩き方の稽古。

首の角度。

礼の深さ。

つまらないと思っていた学びが、こんな形で刃になるとは思わなかった。

外から見れば、ただ正室候補としてふさわしく振る舞っているだけだ。

だが内側では、確かに形勢を取っている。


民娥はふと、池の水面へ目を向けた。

自分が落ちたという場所は穏やかで、今は何事もなかったように光を返している。

だが表面が静かでも、その下では流れがある。

人の関係も同じだと、美奈は思った。


ここは、声を荒げた者が負ける場だ。

荒れた瞬間に、相手へ理由を与える。

ならば今はまだ静かに立つ。

丁寧に。

正確に。

誰の目にも正しい側へ自分を置いたまま、相手のほころびだけを見せていく。


それで十分だった。


正室候補として忙しい一日。

窮屈で、退屈で、息苦しいばかりだと思っていたその時間が、ようやく一つだけ意味を持った。

覚えさせられた形は、ただ縛るためだけのものではない。

使い方を知れば、相手を黙らせるためにも使える。


民娥は外の道をそのまま進みながら、次に唐順希と行き合う時も、同じ礼を返すつもりでいた。

穏やかに。

完璧に。

反論の余地がないほど正しく。


こちらは正室候補としての位置を崩さない。

向こうが軽いままであるなら、その差は勝手に積もっていく。

噂は自分から言わずとも広がる。

むしろ、言わぬ方が強い。


外の風が少しだけ吹き、袖の端を揺らした。

民娥はその揺れを感じながら、顔色ひとつ変えず歩みを進める。

もう腹は立っていない。

いや、正確には立て方を変えた。


怒りを表へ出さず、形へ変える。

それだけで、見える景色が変わる。

この宮中では、それが何より役に立つのだと、民娥の中の美奈は静かに理解していた。


民娥はそのまま部屋へ戻る。

表では静かに、内では次の荒れ方を整えながら。


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