第60話 静かな奇行と広がる波紋
民娥は、今度は庭の端で棒を振っていた。
両足を肩幅ほどに開き、腰を落とす。
握った棒を頭上まで大きく持ち上げ、そのまま一気に振り下ろす。
風を裂く音が、乾いた庭の空気をまっすぐ切った。
ひゅ、と鋭い音が残る。
続けてもう一度。
今度は角度を変える。
肩の力だけではなく、腰から動かす。
体の軸がぶれないよう意識しながら、腕の流れに合わせて振り抜く。
「はあっ!」
声も出す。
わざと少し大きめに。
意味のない声。
言葉にならない、ただの息の勢いだ。
外から見れば、相変わらず奇妙な光景だった。
錦城金氏の娘。
正室候補。
かつて人に物を投げ、付人を蹴り、癇癪を起こすたびに周囲を凍らせた娘が、今度は庭で棒を振り回している。
奇声まで上げる。
見た目だけを切り取れば、十分に奇行だった。
だが、以前と決定的に違う点があった。
誰も被害に遭っていない、壊れた物も一つもない。
棒はただ空を切るだけで、人にも物にも当たらない。
地面を叩き割ることもなく、柱にぶつけることもない。
怒りの矛先はどこにも向かず、ただ動きとして消費されていた。
最初のうちは、尚宮たちも付人たちも身構えていた。
棒を持った瞬間に距離を取り、いつ飛んでくるか分からぬものとして目を離さない。
だが一日、二日、三日と過ぎても、誰も怪我をしない。物も壊れない。
最初は低く囁かれていた。
「また始まった」
「今日は誰に当たるのかしら」
だがその声は、数日で変わった。
「……でも、誰も怪我していないわね」
「そういえば、前回も何もなかったわ」
「物も壊れていないとか」
さらに日が経つと、その言葉は別の方向へ流れ始める。
「尚宮の教育が効いているのでは」
「病のあとで少し変わられたのかもしれません」
「それでも完全には静かにならぬあたり、民娥様らしいけれど」
評価の矛先は、民娥本人ではなく尚宮へ向かった。
誰かが上手く抑えている。
そう受け取られたのだ。
美奈はそれを聞きながら、内心で淡々と整理していた。
狙い通り。
人は変化そのものを警戒する。
昨日まで暴れていた人間が、突然穏やかになれば、何があったと疑う。
病で頭でも打ったのか。
別人のようだ。
そういう話になる。
だが、少しだけ改善した程度なら話は違う。
奇行は残る。
癖も残る。
ただ被害だけが減る。
その程度なら、人は努力や教育の成果として受け取る。
暴力女が突然聖女になれば不自然だが、暴力女が少しだけ被害を減らすのは現実的に見える。
だから棒は必要だった。
棒を振り下ろす。
だが当てない。
声は出す。
だが怒鳴らない。
民娥らしさを残しながら、害だけ消す。
それだけで認識は変わる。
そしてもう一つ。
挨拶の件も、確実に広がっていた。
民娥が誰の目にも分かるほど丁寧な礼を返すたび、唐順希の軽さだけが浮き上がる。
一度なら偶然で済む。だが重なれば意味が出る。
しかも順希は変えない。
ならば噂は、池の件と結びついて勝手に形を持つ。
誰が礼を欠き、誰が静かに返しているのか。
それだけで人は線を引く。
美奈は最初から、順希が変えないことを読んでいた。
変えるなら最初の数回で変える。
変えないなら、それは意志だ。
そして順希は変えなかった。
ならば、無意識ではない。
本人がどう考えているかまでは断定できない。
だが少なくとも、軽い礼を続けても構わないと判断している。
そこには民娥を軽く見る意識がある。
あるいは、民娥が感情的に反応するのを待っている。
どちらでもよかった。
変えないなら、積み上がるだけだ。
噂はやがて池の件と結びついた。
最初に流れていた話は単純だった。
民娥が順希を無視していた。
その拍子に池へ落ちたらしい。
粗暴な民娥なら十分あり得る。
誰も深く疑わなかった。
だが、礼の噂が重なり始めると話は変わる。
「順希殿の礼が軽かったらしい」
「民娥様はきちんと返しておられるのに」
「以前からああだったとか」
そこへさらに尾ひれがつく。
「池のそばでも何かあったのでは」
「礼を欠かれて腹を立てたのかもしれない」
「いや、順希殿のほうが怒ったのでは」
さらに。
「池の近くで言い争ったらしい」
「順希殿が押したとも聞く」
もちろん誰も確かに見てはいない。
だが人は、筋が通れば信じる。
丁寧な民娥。
変わらぬ順希。
そして池に落ちた結果。
材料が揃えば、話は勝手に形になる。
真実かどうかは、その次だ。
美奈は棒を振り下ろしながら、その流れを冷静に見ていた。
(噂は便利だ)
自分から何も言わなくてもいい。
責める必要もない。
泣く必要も怒る必要もない。
ただ正しい形を繰り返すだけで、人が勝手に線を引く。
順希はこれからも礼を変えないだろう。
変えた瞬間、自分が不利になることを彼女自身が理解しているはずだ。
急に深く礼をすれば、それまで軽かったことが目立つ。
だから止まれない。
そのまま続けるしかない。
つまり噂も止まらない。
美奈は最後にもう一度、棒を振り上げた。
肩から腕へ力を流し、風を切る。
「はあっ!」
声を出し、振り下ろす。
止める。
息を整える。
額にうっすら汗がにじんでいた。
ソヨンが少し離れた位置で布を持って待っている。
以前なら近づくのも怖がった距離だ。
だが今は自然にそこへ立っている。
それだけでも変化だった。
流れは悪くない。
奇行は続けるが、被害は出さない。
挨拶も続けるが、相手を責めない。
直接手を下さず、ただ正しい行動を積み重ねる。
それだけで、周囲が勝手に判断する。
誰が荒れていて、誰が乱しているか。
誰が直り始め、誰が変わらないか。
噂は目に見えぬまま、静かに広がっていく。
だが広がったものは、簡単には戻らない。
民娥は棒を肩に担ぎ、池のほうへ目を向けた。
風は弱い。
水面は穏やかだ。
だが、一度落ちた波は消えても、広がった先の輪までは止まらない。
今の宮中も同じだと、美奈は思った。
何も言わなくても、形だけで十分伝わることがある。
だからこそ、次も同じようにやる。
少しだけ荒く。
けれど決して壊さず。
民娥らしさを残したまま、周囲の認識だけを変えていく。
そのために、棒は今日も空だけを切っていた。




