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鏡の王宮、眠る身体、動く身体 ーー体が動く間、別の名が呼ばれるーー  作者: 明日葉


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第58話 順希の胸中に渦巻くもの

唐順希(トウジュニ)の耳に、その話はあまりにも自然に届いた。

誰かがわざわざ知らせに来たわけではない。

戸口の近くで低く交わされた声が、別の女官の口へ移り、形を変えながら流れてきただけだった。

宮中では、こういう話ほど勝手に近づいてくる。正確さと悪意をほどよく混ざっている。


民娥がまた暴れている。

太い棒を振り回している。

側付きの女官を一人そばへ置き、何か指図をしているらしい。

だが今回は怪我人はいない。


そこまで聞いたところで、順希は顔を上げもしなかった。

目の前に置かれていた刺繍枠へ視線を落としたまま、針先だけを静かに進める。

指先は乱れない。

糸の張りも崩れない。

だが胸の奥では、同じ言葉が何度も静かに反響していた。


(・・・・なぜ)


なぜ、あの女なのか。


針を止める。

次の糸を通すふりをして、呼吸を一度だけ整える。


民娥。

錦城金家の娘。

宮中でその名が出れば、たいてい次に続くのは良い話ではない。


怒鳴る。

荒れる。

相手が誰であろうと遠慮がない。

言葉も礼も雑で、感情を隠そうともしない。


順希は、まぶたを伏せたまま針を進める。


暴力的で礼儀も知らない。


口に出せば、自分の方が浅く見えると分かっている。

だから声にはしない。

だが心の中では、何度も繰り返していた。


(どう考えても、おかしい)


針先が布を抜ける。

糸がすべる。

動作だけは静かだ。


自分は違う。


幼い頃から、そうあるように整えられてきた。

言葉を選び、沈黙を知り、相手の表情を読む。

先に出すぎず、必要な時だけ笑う。


世子の前ではなおさらだった。


視線を上げる角度。

返事を返す間。

問いに対して何を削るか。

何を残すか。


それを自然に見せるまでに、どれだけ繰り返したか、自分でも覚えていない。


好意を押しつけることもしない。

近づきすぎれば重くなる。

遠すぎれば残らない。

その線を見誤らぬようにしてきた。


笑みの裏へ感情を沈めることにも、もう慣れている。


世子を好きになったのは、自分が誰よりも早かった。

自分が一番最初に好きになった。


少なくとも順希は、そう信じて疑わなかった。


まだ互いに幼さが残っていた頃。

言葉数の少ないあの人が、珍しく長く返答した日。

庭先で偶然目が合い、そのまま少しだけ会話が続いた時。

人が少ない場所で、取り留めもない話題を交わした夕刻。


あの短い時間の積み重ねが、順希には確かに残っている。


視線が合った時の、わずかな間。

声をかけられた時の、呼吸の置き方。

順希の返答を待つ沈黙。


あれは特別だったはずだ。


少なくとも、自分にはそう見えていた。


(なのに)


糸が少しだけ張りすぎた。

順希はすぐに力を抜き、何事もなかったように整える。


民娥は何だ。


怒鳴り、荒れ、物を投げ、奇声まで上げる。

それでいて揀択(カンテク)(※1)で選ばれ正室候補となった。


順希の胸に鈍いものが沈んでいく。


気に入らない。


だがその一言だけでは足りない。

もっと重く、もっと濁っている。


自分は我慢している。


不満がないわけではない。

理不尽だと思うこともある。

家の事情も、宮中の流れも、望む形ばかりではない。


それでも耐えてきた。


笑い、頭を下げ、場を崩さない。

必要なら引く。

前へ出るべきでない場では出ない。


正室候補に名があっても、決まったわけではない。

だからこそ慎重でなければならない。


少しの乱れが残る。

少しの噂が積もる。


それを知っているから、順希は崩さなかった。


なのに。


(あの女は)


錦城金家という家を背にして、好きに振る舞う。

荒れても切られない。

人へ当たっても大きく咎められない。

周囲が眉をひそめても、なお残る。


それが何より腹立たしかった。


許されている。


その事実だけが、順希の胸の内で重く沈む。


もし同じことを自分がしたなら、評判はすぐに崩れる。

軽率、浅い、情が表に出すぎる。

そう言われるのは目に見えている。


だが民娥は違う。


荒れても、それが性質として処理される。

錦城金家の娘だから。

あるいは、それでも切れぬ理由があるから。


順希は指先へ力を込めすぎていたことに気づき、そっと手を離した。


爪の先が白くなっている。


深く息を吸う。

吐く。

それでも胸の内は静まらない。


感情を表へ出すことはない。

それは自分で選んだ形だ。


穏やかであること。

柔らかく見えること。

人に安心を与えること。


それはただ好かれるためではない。

そうある方が、場を取りやすいと知っているからだ。


静かな者は警戒されにくい。

余計な敵を作らない。


だが胸の奥へ沈んだものは、確実に形を持ち始めていた。


(・・・・許せない)


声にはならないほど小さく、順希は唇の内でそう動かした。


それが嫉妬なのか。

怒りなのか。

あるいは別の感情なのか。


まだ自分でも輪郭は定まらない。


ただ一つだけ分かるのは、民娥が視界へ入るたび、心が静かではいられなくなることだった。


世子の前で荒れた。

それでもなお、あの人は民娥を完全には切らない。


池へ落ちた一件の後もそうだ。

距離を置くどころか、見舞いに足を運んだ。


その事実が順希の内で何度も引っかかる。


なぜ。


単なる家の均衡か。

錦城金家への配慮か。

それとも、別の理由か。


順希はそこまで考えて、針を置いた。


窓の外では風が少しだけ枝を揺らしている。

午後の光は柔らかい。

外からは遠く女官たちの足音も聞こえる。


今日も民娥は棒を振っているのだろうか。

そう思うだけで、胸の奥がざわついた。


順希はゆっくり目を閉じた。


自分にはできない。

だからこそ理解できない。

理解できないからこそ、腹の底に残る。


静かに笑うことはできる。

耐えることもできる。

待つこともできる。


だが、いつまで待てばよいのか。


その問いだけが、静かな部屋の中で答えを持たぬまま残った。


再び針を取る。

指先はいつも通り動き、表情も崩れない。


けれど胸の奥では、さきほどより少しだけ深く、冷たいものが沈んでいた。


(※1)揀擇かんてく:朝鮮時代、王や世子(王太子)の妻を良家から選ぶ行事

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