第57話 棒と静寂
どうせ暴れ女だ。
民娥は部屋の中央に立ち、静かにそう割り切っていた。
窓から差し込む午後の光が床の上に細く伸び、室内の静けさだけが妙に際立っている。
つい先ほどまあった慌ただしさも、もう薄。
残っているのは茶器のぬるい香りと、自分の呼吸だけだ。
民娥という名の器の評判は最悪だ。
癇癪持ち、暴力的、理不尽。
人前で声を荒げる。
気に入らなければ物を投げる。
相手が誰でも遠慮なく怒気を向ける。
宮中でその名を聞けば、眉をひそめる者の方が多い。
今さら多少何かを振り回したところで、誰も驚きはしない。
むしろ、またかと思われるだけだ。
(好都合)
池へ落ちたあの一件。
あれを境に少し変わったと言われるなら、それはそれで使える。
だが変わりすぎれば不自然だ。
人は急な変化を疑う。
昨日まで荒れていた者が急に穏やかになれば、それだけで目を引く。
必要なのは、完全な変化ではない。
少しだけ角が鈍くなった。
少しだけ人へ当たらなくなった。
その程度でいい。
当たらなくなった、であって、暴れなくなった、ではない。
そこを間違えると、この器が積み重ねてきた印象が崩れる。
崩れれば余計に見られる。
今はまだ、それを避けるべきだった。
人に向かわなければ、暴力はただの性質として処理される。
癇癪持ち。
落ち着きがない。
手が早い。
その程度で済む。
だが人へ向けば話が変わる。
恨みも残るし、余計な記憶も増える。
民娥は手の中の棒をゆっくり転がした。
木肌の乾いた感触が指先へ伝わる。
節の少ない枝を削っただけの簡素なものだが、持った時の重さは悪くない。
太さ。
長さ。
重さ。
どれも、ちょうどいい。
「合格」
小さく呟いてから、両手で握る。
握りの位置を少し変え、重心を確かめる。
片手では軽い。
両手なら振りやすい。
振った時に先が流れすぎない。
足を少し開く。
肩幅よりわずかに広く。
片足を半歩だけ引く。
自然に腰が落ちる。
振り上げる。
振り下ろす。
空気を裂く音が、静かな室内に鋭く響いた。
予想より軽い。
だが十分だ。
もう一度。
肩の力を抜く。
肘を締める。
手首を最後だけ効かせる。
もう一度。
棒の先が床すれすれで止まり、風だけが前へ抜ける。
乾いた音が耳に残った。
暴力ではない。
ただの素振りだ。
(運動不足解消にもなるし)
寝込んでいたふりをしていた間、体は思った以上に動かしていない。
歩くことはできる。
立つことも問題ない。
だが全身を使う動きは別だ。
こうして腕を振ると、背中の筋が少しずつ熱を持ち始める。
もう一度、振る。
今度は少し速く。
棒の先が風を切り、耳元で低く鳴った。
ふと、懐かしい感覚が浮かぶ。
剣道みたいだな。
学生の頃。
道場に染みついた乾いた匂い。
防具の重さ。
竹刀が打ち合わさる高い音。
記憶は鮮明だった。
長く触れていなかったはずなのに、体のどこかがまだ覚えている。
握り直す。
足を踏み替える。
肩からではなく背中から振る。
自然に形が整った。
棒を振り下ろすたび、眠っていた筋肉が少しずつ目を覚ます。
肩甲骨が開き、腰が連動する。
腕だけで振るより楽だ。
力が流れる。
呼吸が深くなる。
吸って。
吐く。
振る。
余計な思考が一瞬だけ消える。
叫ぶ必要はない。
壊す必要もない。
ただ動いていればいい。
だが――
外から見れば違う。
部屋の中で棒を握り、何かに取りつかれたように振り続ける。
それだけで十分、いつもの民娥に見える。
それでいい。
民娥はわざと声を上げた。
「やあっ!」
意味のない声だった。
怒りもない。
相手もいない。
ただ音だけを外へ投げる。
誰かが聞けば、また始まったと思う。
病み上がりでも結局あれだ、と勝手に納得する。
もう一度。
「いっ――!」
今度は短く。
声だけ荒く、動きは一定に保つ。
棒が空を切る。
床は打たない。
壁にも当てない。
何も壊さない。
だが音だけは十分に荒い。
汗がじわりと首筋へ浮いた。
額にも薄くにじむ。
思った以上に体が温まる。
(こういう方が、よっぽど健全だ)
人を傷つけない。
物も壊さない。
ただ体を動かす。
理屈としては健全だ。
だが外聞は最悪。
民娥としては、それで満点だった。
さらに振る。
肩へ少し疲れが出る。
握りに汗が移る。
だがまだ止めない。
呼吸が一定になり、心拍だけが少し速くなる。
池へ落ちた日のことが一瞬よぎった。
冷たい水。
息が詰まる感覚。
視界の揺れ。
だがその記憶も、棒を振る動きに混ざると薄くなる。
今必要なのは、弱っていた女ではない。
少しずつ棘を戻しつつある民娥だ。
完全に以前と同じではない。
だが、急に静かすぎてもおかしい。
だから段階がいる。
今日は人へ向かわず、音だけ。
次は言葉を荒くするだけ。
その次に少し机を叩く。
順番に戻せば違和感は少ない。
世子の前で見せたあの静けさを、そのまま続けるわけにはいかない。
穏やかすぎるのもまた、不自然になる。
民娥は棒を振り下ろしたまま止め、肩へ担いだ。
肩口へ木の重みが乗る。
息をゆっくり吐く。
胸の上下が落ち着いていく。
腕の熱だけが残った。
窓の外では風が少しだけ枝を揺らしている。
遠くで人の気配もするが、この部屋へ近づく音はない。
さっきの声で誰かが耳を立てたとしても、わざわざ入ってくる者はいないだろう。
また始まった。
そう思って距離を取るだけだ。
それがこの器の積み重ねだ。
民娥は棒を片手で持ち替え、先を軽く床へ触れさせた。
乾いた小さな音が鳴る。
しばらくは、これでいい。
暴れ女は暴れる。
だが、人へは向けない。
視線だけが少し細くなる。
唐順希の静けさ。
世子の観察する目。
尹怜の冷えた距離。
それぞれが何を見ているかはまだ読み切れない。
だが少なくとも、自分だけが急に変わったと見せるのは損だ。
荒れているようで、荒れていない。
崩れているようで、崩していない。
そこに留める。
民娥は棒を再び握り直した。
次に誰かが戸を開けた時、不自然に見えないように。
「もう一回」
小さく呟き、再び振り上げる。
風を裂く音が、静かな部屋へまっすぐ走った。




