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鏡の王宮、眠る身体、動く身体 ーー体が動く間、別の名が呼ばれるーー  作者: 明日葉


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第56話 書と血脈の間

世子はそのまま立ち止まらず、外へ続く石敷きを折れた先で足を止めた。

木立の影が斜めに落ち、午後の光が地に細く伸びている。

風は弱く、枝先がかすかに触れ合う音だけが耳に残った。

尹怜と交わした言葉が、まだ頭の内に残っていた。


唐順希の静けさ。

民娥の荒れ方。


そのどちらも偶然では片づけにくいと感じたまま、世子は振り返らずに口を開いた。


「弘文館校理を呼べ」


短い命だった。


内官は即座に頭を下げ、足音を殺して離れていく。

余計な問いはない。


今の声が何を意味するか、それだけで十分伝わったのだろう。

世子はその場で待った。


前には低く整えられた庭木、その先には池の一部が見える。

水面は静かで、わずかな光だけが揺れていた。


静けさはあるが、思考は止まらない。


唐順希は静かに好感を集める。

前へ出ず、言葉を控え、空気を乱さぬ。

それだけで周囲は勝手に安心する。


一方で民娥は違う。

目立ち、荒れ、周囲へ余計な緊張を残す。

あまりに対照が鮮やかすぎた。


ほどなくして、足音が近づいた。


呼ばれた校理は息を乱さず現れ、定められた距離で深く礼を取る。

衣も整い、視線も低い。


だが一度だけ世子の顔を見た瞬間、その背筋がわずかに伸びた。

ただ学問を問われる場ではないと察したのだろう。


「参りました」


「近くに」


世子は座を示さない。

立ったままの応答を求める時は長く引かせぬ意思でもある。

校理もそれを理解し、一歩だけ距離を詰めた。


「宮中の力の流れについて、どう見ている」


問いは簡潔だった。


尹怜へ向けたものとほぼ同じだが、聞く相手が違えば拾うものも変わる。

官の場にいる者と、文の場にいる者では見える筋が異なる。

校理はすぐには答えず、一度だけ視線を落とした。


短く整理し、必要な線だけを選んでいる沈黙だった。


「文の場から見れば――」


声は低く抑えられていた。


「錦城金家に異を唱える声は、表には出ておりません。ただし、沈黙が多すぎます」


世子は目だけを動かした。


「沈黙、か」


「はい」


校理は続ける。


「本来であれば、学問の場には必ず賛否が生まれます。しかし今は、否の声が最初から表へ出ません」


風が一度だけ枝を揺らした。

葉の影が石の上でわずかに動く。


「恐れているのではなく、測っている、ということだな」


世子の声は静かだった。


「その通りかと」


校理は迷わず答えた。


「誰が先に口を開くか、どこまで許されるか、それを見ております。口を開けば残る。だから誰も先へ出ません」


世子は小さくうなずく。

ただの萎縮ではない。

まだ秤にかけている。

それは逆に言えば、完全に従っているわけでもない。


視線を庭木の向こうへ向けたまま、次を問う。


「順希と民娥の動きについては、どう見る?」


校理の眉がわずかに動いた。

話題が人物へ移ったことより、その二人を並べて問われた意味を読んだ反応だった。


「唐順希殿は、己を語らず、周囲に語らせております」


「民娥は?」


「己を語らせぬために、周囲を黙らせております」


校理の言葉は整っていた。

感情を削り、輪郭だけを残している。


世子は小さく息を吐いた。


「同じ沈黙でも、方向が違うな」


「はい。片や好意から生まれる沈黙。片や警戒から生まれる沈黙です」


校理の言葉は整っていた。

学問を扱う者らしく、感情を削って輪郭だけを残している。


世子はその言葉を頭の中でなぞる。

唐順希の静けさは場を穏やかに見せる。

民娥の激しさは空気を乱す。

だがどちらも周囲の視線を集める点では同じだった。


「錦城金家について、何か掴んでいるか?」


問いが変わる。

校理はわずかに呼吸を整えた。


領議政(ヨンイジョン)(※1)の父より、いくつか」


その一言で空気が変わる。

世子は初めて正面から校理を見た。


「続けよ」


校理は声をさらに落とした。


「錦城金家は、表向きは王室への忠誠を崩しておりません。しかし裏では、人の首ではなく、道を押さえております」


「道?」


世子が短く返す。


「官職へ至る道、昇進の道、地方から都へ戻る道。どこにも金家の縁が入ります」


それは露骨な排除ではない。

名目は常に整っている。

だから見えにくい。


「反対者を切るのではなく、最初から通れなくする、と?」


「はい」


校理はうなずいた。


「候補に名が挙がらぬ。推挙が届かぬ。任地が変わらぬ。そうして気づけば声を上げる位置へ来られなくなります」


世子は静かに聞いている。

表情は動かない。


「ゆえに反発が形になりにくいのです。切られたなら敵意が残ります。しかし通れなかった者は、自ら足りなかったと受け取る場合もあります」


力を見せるより厄介なやり方だ。

目立たず、怨みも広がりにくい。


世子はかすかに笑った。

愉快だからではない。


「厄介だな」


「はい。非常に」


校理はそこで一歩だけ言葉を進めた。


「ただ一つ、弱いところがあります」


「申せ」


「彼らは正統を重んじすぎます」


短く切る。


「血、序列、形式。そのどれも崩れることを嫌います」


世子の目が細くなった。


「つまり?」


「形式を乱す存在には、必要以上に反応します」


民娥の姿が頭をよぎる。

遠慮なく声を荒げる。

床を叩き、視線を受けても止まらぬ。

あの荒さは確かに秩序を嫌う者の目を引く。


(だから、見ているのか)


世子の内で徳永義秀の意識が静かに組み上がる。


(壊れるのか、使えるのかを測るために)


排除するほどではない。

だが放置もしない。

まず観察する。

錦城金家ならそうする。


世子は校理へ向き直った。


「錦城金家について、表も裏も徹底的に調べよ」


「どこまでやりますか?」


「血脈、婚姻、過去に失脚した者、地方との金の流れ。拾えるものはすべてだ」


校理の表情は変わらない。


だが声はさらに慎重になった。


「承知いたしました」


「領議政からの線も引き続き使え」


「はい」


「ただし」


そこで世子は言葉を切る。

風が一瞬だけ止んだ。


「錦城金家に気取られるな」


校理は深く頭を下げた。


「細心の注意を払います」


礼は深く、長くはない。

必要な分だけ残して、校理は後ろへ下がる。

衣の裾が石をかすめ、足音が遠ざかっていった。


その背を見送りながら、世子は動かない。


静かに笑う女。

激しく荒れる女。


どちらも単純ではない。


唐順希は穏やかに場を取り、民娥は荒れながら視線を奪う。

正反対に見えて、どちらも人を動かす。


(だが)


(盤を見ているのは、誰だ?)


唐順希自身か。

孤嶺唐氏か。

あるいはさらに外か。


民娥もまた、ただ荒れているだけとは言い切れない。

演じているならなお厄介だ。

演じていなくとも、その荒さを誰かが利用できる。


池の向こうで鳥が一度だけ羽を打った。

わずかな水音が広がる。


世子は再び歩き出す。

石の上を踏む足取りは一定だった。


今必要なのは、誰が味方かを急いで決めることではない。

誰がどこまで同じ方向を見ているかを、誤らず見極めることだった。


錦城金家を崩すだけなら、手はある。

だが崩した後に何が入るかで、すべてが変わる。


唐順希の静けさの先にあるもの。

民娥の激しさの奥にあるもの。

そのどちらかを見誤れば、王家は別の形で囲われる。


午後の光がさらに傾き、庭の影が長くなる。

世子はその変化を横目に、次に呼ぶべき名を胸の内で整理していた。


(※1)領議政ヨンイジョン

   朝鮮時代の中央政府の最高機関 議政府ウィジョンブの序列第一位の役職

   現代の首相にあたる地位

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