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鏡の王宮、眠る身体、動く身体 ーー体が動く間、別の名が呼ばれるーー  作者: 明日葉


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第55話 静と動のあいだ

左副承旨が姿を現したのは、世子が東屋から少し離れ、池の縁へ歩みを移した直後だった。

石畳の端を踏む足音は控えめで、無駄に急ぐ気配もない。

それでも世子は振り返る前から誰が来たかを察していた。

歩幅。

呼吸。

一定の距離を崩さぬ近づき方。


呼ばれて急いで来ても、最後の数歩で必ず整える。

その癖は尹怜にしかない。


「参りました」


深く、無駄のない礼。

衣の裾も乱れず、頭を下げる角度まで過不足がない。


世子は小さくうなずく。


「時間は取らせぬ。近くに」


短い命令だった。


尹怜は一歩だけ距離を詰める。

近づきすぎず、他の者に聞かれぬ位置で止まる。


二人の間に他の者はいない。

内官も少し離れて控えているだけで、声が届く距離ではなかった。


池は静かだった。

水面に細い光が揺れ、枝の影が淡く落ちている。


世子は視線を前へ向けたまま、前置きなく口を開く。


「今の宮中の力関係を、どう見ている」


問いは核心から始まった。


尹怜は一瞬だけ目を伏せる。

問いの幅を測るためではない。

どこから答えるかを整えるだけの短い沈黙だった。


「現状のまま進めば」


声は低い。


「錦城金家の一強が固定されます」


言葉は明快だった。


「王家が中枢にあっても、実の決定権は外戚に留まります」


世子は歩きながら聞いている。

顔は前を向いたまま。

表情も変わらない。


「変わらぬ、ということだな」


「はい」


尹怜は即答する。


「波風は立ちません。しかし停滞します」


停滞。


それは一見すると安定にも聞こえるが、中にいる者には違う。

動かぬ構造は、いずれ腐る。


世子はさらに歩を進める。

池沿いの石畳をゆっくり進みながら、次を問う。


「では、崩れた場合は」


そこで尹怜の声がわずかに低くなる。


「短期的には混乱です」


即答ではあるが、言葉の重みが変わる。


「複数の家が一斉に動きます。主導権を奪い合い、空いた位置へ入り込もうとするでしょう」


そこで一度だけ区切る。


「しかし」


世子がその続きを促すように目だけ動かした。


「新たな均衡は生まれます」


尹怜は続ける。


「一強である必要はありません。二つ、あるいは三つに力が割れれば、互いに牽制が働きます」


さらに一歩進める。


「少なくとも、今よりは流動的になります」


世子はそこで足を止めた。

池の光が衣の裾に反射する。


「その新たな均衡に、誰が食い込む」


問いは短い。


尹怜は迷わなかった。


「最も可能性が高いのは、孤嶺唐氏でしょう」


即答だった。


世子は小さく息を吐く。


「やはり、そうか」


声は静かだった。

だがそこにはすでに予想していた響きがある。


しばらく池を見る。

風は弱い。

水面の揺れも浅い。


そのまま世子は唐突に言葉を変えた。


「順希は、笑みを崩さぬ」


尹怜は口を挟まない。

続きがあると分かっている。


「柔らかい言葉を使い、立ち位置をわきまえている」


世子の声は低い。


「前へ出ず、場に合わせて引く。動かぬことで空気を取る」


評価でも批判でもない。

ただ観察だった。


「場を乱さず、誰にも棘を残さない」


順希の笑み。

短い返答にも崩れぬ表情。

話題を軽く流す癖。


それらが思い浮かぶ。


「一方で、民娥は違う」


そこだけ声にわずかな硬さが混じる。


「騒ぎ、壊し、当たり散らす」


淡々と並べる。


「誰の目にも分かる形で秩序を乱す」


尹怜は静かにうなずいた。


「静と動、ですか」


「そうだ」


世子はそこで初めて振り返る。

尹怜の目をまっすぐ見る。


「どちらも偶然とは思えぬ」


順希の動かなさ。

民娥のやりすぎる動き。


方向は正反対だ。

だがどちらも周囲の視線を強く引く。


片方は安心を呼び、片方は警戒を呼ぶ。


「順希の何もしないという振る舞い」


世子は続ける。


「民娥のやりすぎる振る舞い」


その二つが並ぶと、自然に比較が生まれる。


穏やかな者。

激しい者。


宮中はそういう単純な図式を好む。


「孤嶺唐氏について、何か掴んでいるか」


問いははっきりしていた。


尹怜は一度だけ呼吸を整える。


「表向きは慎重です」


答えも簡潔だった。


「婚姻を急がず、発言も控えめです」


ここまでは誰が見ても同じ印象だろう。


「ただ」


世子の視線がわずかに鋭くなる。


「裏は」


その一語に、尹怜はすぐ続けた。


「人の動きが増えています」


池の風が少しだけ揺れる。

だが声は崩れない。



「過去に距離を取っていた学者、没落した旧臣。

 そうした者たちに少しずつ接触しています」


派手ではない。

だが確実に網を広げている形だ。


「音を立てぬように」


世子の目が細くなる。


「集めているな」


「はい」


尹怜は短く答える。


「表に出ぬよう慎重です」


沈黙が落ちた。


ここは外だ。

だが木立が深く、人の気配は遠い。

風だけが枝を揺らしている。


世子は視線を池から木立へ移した。


「順希は静かに、同情と好感を集める」


言葉はゆっくりだった。


「民娥は激しく振る舞い、恐れと諦めを集める」


尹怜は答えを挟まない。


世子の思考が、もう答えへ近づいていると分かっているからだ。


「その結果、誰が得をする」


問いというより、ほとんど独り言に近い。


だが尹怜は静かに答える。


「孤嶺唐氏でしょう」


短く、断定する。


世子は小さくうなずいた。


「やはりな」


怒りはない。

焦りもない。


ただ冷えた理解だけがある。


その対比は自然に見える。

自然に見えるから強い。


世子は歩き出す。

尹怜も半歩遅れて続く。


「引き続き、情報を集めよ」


声は低い。


「表も裏もだ」


「承知しました」


即答。


世子はさらに言う。


「特に、順希の動かない動きを」


そこだけ少し強調した。


動かぬ者ほど痕跡を残さぬ。

だからこそ拾うには細さが要る。


尹怜は深く礼をする。


「すべて報告いたします」


世子は再び前を見る。


民娥の激しさも、順希の穏やかさも、宮中の視線を一定方向へ誘導している。

どちらもただの性格ではない。


問題は、その両方を、誰が使っているかだ。


順希自身か、家か、あるいはもっと別の層か。

民娥もまた、本当にただ暴れているだけなのか。

まだ断定はできない。


だが一つだけ確かなのは、どちらも放置すると形を持つということだった。


池の端を歩きながら、世子は次の一手を胸の内で組み始める。


急ぐべきか。

まだ待つべきか。


婚礼が早まるなら、その前に見ておくべきものが増える。


表面だけで決めれば、あとで修正が利かない。


風がようやく少し強くなり、水面に細い波が広がった。


その揺れを横目に、世子は黙ったまま歩みを進めた。


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