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鏡の王宮、眠る身体、動く身体 ーー体が動く間、別の名が呼ばれるーー  作者: 明日葉


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第44話 静かな見舞い

静かに、ほんとうに静かに時間が流れていった。


言葉を交わさぬまま向かい合っているのに、気まずさとは少し違う種類の沈黙だった。

窓の外で風が枝を揺らしているはずなのに、その音は遠く薄く、まるで何枚も布を隔てた向こうから届いているように聞こえる。


庭を歩く人の足音もかすかで、部屋の中へ入るころには形を失っていた。


近くに誰かいるはずなのに、存在だけが薄くなる。


そのため、この部屋だけ時間の流れがわずかに遅くなったように感じる。


民娥は視線を落としすぎぬよう気を配りながら、呼吸の速さだけを一定に保っていた。


病人らしく弱く見せるには、動きだけでなく間も必要だ。


返答を急がず、肩を張らず、力を抜きすぎず。


世子は上座に座ったまま、必要以上に口を開かない。

無理に慰めることもなく、探るような問いも重ねない。


ただそこにいて、顔色と様子を静かに見ている。

仮病を使っていないか観察しているような視線にも感じる。


この距離はむしろ助かった。


言葉が多い相手なら、綻びも増える。


だが相手が沈黙を許すなら、役も続けやすい。


その沈黙を破るように、戸の外で控えていた女官が最小限の合図だけで部屋へ入ってきた。


足音は抑えられ、衣擦れさえ小さい。


手にしている盆の上には茶器と菓子が整然と並んでいる。


湯気は高すぎず、香りだけがやわらかく漂う。


器の位置まできちんと揃えられていて、置く角度にも迷いがない。


卓の上へ音も立てず置かれ、女官はそれ以上場へ気配を残さず下がる。


茶と菓子。


見舞いとしては自然な流れだった。


何も口にせず帰れば、それはそれで硬すぎる。


少しでも手をつけることで場が整う。


民娥は視線をそこへ落としかけ、途中で止めた。


菓子の形を認識した瞬間、反射的に目をそらす。


(これ・・・・)


胸の奥で短く息が詰まる。


見たくない。


理由は明確だった。


あの夜。


器の中で揺れた濁り。


赤く見えた部分。


鼻の奥へ刺さったあの匂い。

喉に残った熱を思い出す。


一度結びつくと、形だけで記憶が蘇る。


甘味の色味が少し似ているだけで十分だった。


喉の奥でわずかに吐き気が動く。

胃が思い出したように縮む。

だが顔には出せない。


ここで明らかに拒めば、理由を問われる。


世子はその変化に気づいた様子を見せず、先に茶へ手を伸ばした。


指先の動きに迷いがない。


蓋を取り、香りを一度だけ確かめる。


そのまま自然に口へ運ぶ。


優雅に見える。


けれど飾るための所作ではなかった。


誰かに見せるためではなく、長く身についてしまった動き。


無駄なく、静かで、途中に余計なためらいがない。


続いて菓子へ手が伸びる。


一つ取り、形を崩さず口へ運ぶ。


その流れも自然だった。


民娥は一呼吸遅らせてそれに続く。


急げば不自然。

遅すぎても不自然。

茶碗を持つ手には少しだけ力を抜く。

指先が弱く見える程度に。


口に含む。

温度がちょうどいい。

熱すぎず、冷めすぎず、舌へ苦みが穏やかに広がる。


肩の力が抜けた。


苦みと渋みの均衡が崩れていない。

香りも軽すぎず、重すぎない。

喉へ落ちるときに残る余韻まで整っている。

雑に淹れた茶ではない。


きちんと選ばれた味だった。


(でも)


視線は自然に菓子へ戻る。

胃から何かが込み上げてくるような、不快な感覚がした。


だがここで食べないという選択は取れない。


茶だけ口にして避ければ、目につく。


一度だけでいい。


最小限で済ませればいい。


民娥は視線を合わせぬまま菓子を取った。


小さく一口だけ。


歯が触れた瞬間、思ったより柔らかい。


甘みはある。


香りも控えめで嫌味はない。


不味くはない。


けれど強く印象にも残らない。


甘さは均一で、驚きがない。


口に残る余韻も短い。


(また食べたいとは思わないな・・・・)


率直な感想はそれだった。


魅力が薄い。


そこにあるから食べるだけの菓子。

存在していても、記憶には残りにくい。


咀嚼し、飲み込む。


喉を通る瞬間だけ、先ほどの嫌な記憶が少し重なったが、それ以上は広がらない。


助かった、と内心で思う。


これ以上すすめられたら面倒だった。


一口で済むなら十分だ。


卓の上に再び静けさが戻る。

茶器のふたが小さく触れる音だけが響く。


視線はほとんど交わらない。


世子は無理に会話を作らない。

民娥もまた、自分から何かを差し出さない。


それでも不自然ではなかった。


病人を見舞う。


その名目なら、この程度の静けさはむしろ適切だ。


過剰に親しげでもなく、冷たすぎもしない。


必要な距離だけを保ったまま時間が進む。


この距離感は、ある意味で助かる。


本来の民娥なら何か期待したかもしれない。


もっと言葉を欲しがったかもしれない。


だが美奈には、これ以上近づかれない方が楽だった。


余計な会話が増えれば、作る表情も増える。


笑う回数も増える。

感情を装う隙が増える。

沈黙はその手間を減らしてくれる。


茶の香りだけがゆるく漂う。

菓子の甘さはすでに舌から薄れた。


時間だけが淡々と進み、やがて世子が静かに立ち上がる。


衣擦れの音が思ったよりはっきり耳へ届いた。


部屋が静かだからこそ、その小さな音だけが際立つ。


立ち上がる動きにも無駄はない。


ためらいも引き延ばしもない。


長居するつもりは最初からなかったのだろう。


「無理はするな」


低く穏やかな声が落ちる。


「しばらくは身体を休めよ」


それだけだった。


命令とも違う。

感情の濃さもない。

けれど形式だけの冷たさでもない。


立場として必要な言葉を、必要な温度で置いていく。


民娥はゆっくり頭を下げた。


急ぎすぎず、弱さを残して。


「恐れ入ります」


声は小さめに抑える。


これ以上は加えない。


礼だけで十分だった。


世子はそれ以上何も言わず、踵を返す。


尹怜も一歩遅れて続く。


戸が静かに閉じられた。


閉まる音まで控えめで、最後まで空気を乱さない。

足音が遠ざかる。

一定の速さで、やがて庭の向こうへ薄れていく。


部屋に残ったのは茶の香り。

わずかに残る菓子の甘さ。

そして役目を終えた沈黙だった。


民娥はそこでようやく小さく息を吐く。


肩の力を抜きすぎぬよう保っていた分、胸の奥が少しだけ軽くなる。


無事に終わった。

余計な問いもなく、綻びも出なかった。


卓の上の菓子をもう一度見て、すぐに視線を外す。


やはり好きにはなれそうにない。


茶だけならもう一口ほしい。


だが今はまだ病人のままでいる方がいい。


そう判断し、民娥は再び静かな顔へ戻った。

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