第45話 名もなき草が結んだ線
西京大学の構内は、昼間の喧騒が最初から存在しなかったかのように静まり返っていた。
講義棟の灯りはすでに大半が落ち、研究棟の窓だけがところどころ淡く残っている。
その中でも一角、由梨の部屋だけに灯る白い明かりが、夜の窓ガラスへ薄く反射していた。
昼間は人の往来が絶えない廊下も、この時間になると空調の低い唸りしか聞こえない。
誰かが遠くで扉を閉めた音が一度響いたきり、その後はまた静けさが戻る。
机の上には例の雑草の束が置かれていた。
紙の上へ広げたまま、余計な水分を飛ばすように少しだけ間隔を空けて並べてある。
白衣を脱ぎ、椅子へ深く腰を下ろした由梨は、しばらく何もせずその草を見つめていた。
視線だけで輪郭をなぞる。
葉の付き方。
茎の細さ。
根元に近い色の変化。
一見すると、どこにでもありそうだった。
(その辺に生えてそうなんだけど・・・・)
最初に浮かんだ感想は、それだった。
道端。
校舎裏。
駐車場の端。
少し放置された空き地。
誰も名前を知らないまま踏みつけて通り過ぎる種類の草に見える。
目立つ色もなく、毒々しさもない。
むしろ目に入っても記憶に残らない側の植物だった。
なのに。
由梨の中で妙な引っかかりが消えない。
見覚えがあるはずなのに、ない。
逆に、初めて見るはずなのに、完全な未知とも言い切れない。
植物に詳しいわけではない。
だが日常の風景として目に入る草花くらいは自然に記憶へ残る。
それなのに、この草だけはどの引き出しにも収まらなかった。
葉の形が少しだけ違う。
茎の質感も微妙に異なる。
そして何より、あの花。
四輪だけ控えめに咲いていた小さな花。
派手ではない。
色も強くない。
だが形が妙に整っていて、視線を留めさせる。
名前を知らない。
図鑑のページに載っていそうで載っていない。
「変だな」
小さく呟き、由梨はスマートフォンを手に取った。
まず雑草の束そのものを撮る。
真上から一枚。
角度を変えて斜めから一枚。
茎の付け根が見えるように寄り、葉脈が分かる距離でもう一枚。
影が出ないよう照明の角度を調整し、机上のスタンドも少し寄せる。
根元に近い部分は色がわずかに違うため、そこも逃さず記録した。
葉の裏側も確認する。
指先でそっと返し、表面との違いを撮る。
次に視線を移したのは、お守り袋に入れてある花だった。
コピー用紙で作った即席の袋は見た目こそ簡素だが、中身を潰さず保つには十分だった。
医局で急いで作ったときの折り目がまだ残っている。
袋越しでも花弁の輪郭は分かる。
色も完全には隠れない。
由梨はそれも丁寧に撮った。
袋の角度を変え、光が反射しすぎない位置を探しながら何枚か続けて保存する。
画面上で拡大し、ピントがずれていないことを確認してから次へ進んだ。
すぐに自力での調査へ入る。
学内データベースを開く。
過去に触れた植物関連の資料を思い出しながら検索語を変える。
葉の形。
花弁数。
草丈。
候補になりそうな語を入れても、画面に並ぶのは似たものばかりだった。
植物図鑑アプリでも試す。
画像認識へかける。
検索結果は複数出る。
だがどれも決め手がない。
似ている。
けれど違う。
花の形が少し違う。
葉の縁が違う。
茎の色味も一致しない。
画像検索でも同じだった。
近縁種と思われるものは次々出る。
だが完全一致はひとつもない。
(近縁種か、それとも……)
頭の中で可能性を並べる。
交雑。
突然変異。
局所的な固有種。
記録の薄い外来種。
いくらでも仮説は立てられる。
だが裏付けがない。
植物学は専門外だ。
見た目の近似だけでは踏み込めない。
時間だけが静かに進む。
机の端に置いていたコーヒーは、気づけば完全に冷めていた。
口をつけると苦みだけが強く残る。
窓の外はさらに暗さを増し、向かいの棟の灯りも少しずつ減っていく。
由梨はそこでようやく認めた。
(無理だな、これ)
病理医としての知識では届かない。
細胞の変化なら見える。
染色体なら追える。
組織の異常なら数時間で整理できる。
だが植物は別だ。
見えているのに、言語化の土台が足りない。
自力調査には限界がある。
少し迷ったあと、由梨はメールアプリを開いた。
宛先に入力する名前は迷わない。
白川俊哉。
西京大学病院の腫瘍内科に籍を置く同期。
同じ大学病院で働いているが、専門外の時間だけ異様に植物へ偏っている男だ。
植物の論文を大量に書いているわけではない。
研究室に所属しているわけでもない。
それなのに妙に詳しい。
休日になると山へ行く。
河川敷へ行く。
地方の空き地を歩く。
珍種や未記録植物らしきものにやたら遭遇する。
本人は偶然だと言うが、由梨から見れば偶然で片づける回数ではない。
学会帰りに雑草を拾って帰ってきたこともある。
出張先で植物標本を抱えていたこともある。
変わり者だが、こういうときに一番早い。
由梨は簡潔に文を打った。
見たことのない植物を入手したこと。
写真を添付すること。
もし分かれば名前か系統を教えてほしいこと。
余計な説明は書かない。
どこで手に入れたか。
なぜ気になっているか。
それはまだ伏せる。
送信。
画面が切り替わるのを確認し、スマートフォンを伏せて机へ置いた。
「それにしても」
由梨は再び雑草の束を見る。
「なんで植物なんだろ」
自分でも声に出して違和感を覚える。
これまで向き合ってきたのは常に顕微鏡の向こう側だった。
ウイルス。
組織。
細胞。
目に見えぬ単位で変化するもの。
解析も判断も、拡大の先にあった。
それが急に肉眼で見える草。
しかも経路が曖昧だ。
夢の中の出来事のようでいて、手元には確かに残っている。
触れれば感触がある。
葉を折れば匂いも出る。
偶然と言うには出来すぎていた。
四輪の花を、お守り袋へ入れて配った。
そのあと医局の空気がわずかに変わった。
誰も明言しないが、疲労の濁りが少し薄れた。
空気の刺さり方が和らいだ。
そして自分自身の眠りも深くなった。
寝つきが違う。
途中で起きる回数も減った。
理由を科学的に説明できる材料はまだない。
それでも変化だけは確かだった。
由梨はそこで思考を一度切った。
今は答えが出ない。
無理に意味づける段階ではない。
だが、この草が意味のないものではないことだけは妙に確信できた。
理由は説明できない。
それでも、ただの雑草ならここまで引っかからない。
由梨は立ち上がる。
保管用のケースを棚から取り出し、雑草の束を一本ずつ慎重に移した。
乾燥しすぎないよう湿度も確認する。
花の部分には触れすぎない。
葉の向きも崩さず整える。
蓋を閉じる前に一度だけ全体を見る。
「待ってなさい」
誰に言うでもなく小さく呟く。
植物は何も答えない。
だがそこにあるだけで、まだ何かを隠している気配がある。
部屋の明かりを落とすと、窓に映っていた自分の姿も薄く消えた。
静まり返った研究棟の中で、ケースの中の緑だけがわずかに存在感を残している。
まだ名前はない。
だが線は確実に伸びていた。
見えない場所で、ばらばらだったものが少しずつ結び始めていた。




