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鏡の王宮、眠る身体、動く身体 ーー体が動く間、別の名が呼ばれるーー  作者: 明日葉


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第43話 病人という配役

民娥の部屋は、朝から不自然なほど静かだった。


戸の外を行き来する足音も少なく、風が庭木を揺らしても、その音さえ遠く薄く感じられる。

窓から差し込む光は柔らかく、部屋の隅まで明るく照らしているのに、あえて室内は半ば影を残すよう整えられていた。


香も強く焚かれていない。

食事の匂いも残していない。

人の出入りを減らし、必要な器だけを目につく場所へ置く。


寝台のそばには水の器。

手の届く位置に布。

膳は下げさせ、薬椀だけを残す。


いかにも数日伏している部屋に見えるよう、細部まで崩さず整えてあった。


演出としては十分だった。

やりすぎれば芝居になる。

足りなければ健康に見える。


その中間を取るのが最も難しい。


知らせが届いたのは少し前だった。


世子が来る。


その一言を聞いた瞬間、民娥は胸の内で静かに息を吐いた。


(来たか)


予想より遅くもなく、早すぎもしない。


五日という日数なら、立場上そろそろ動く頃だと思っていた。


婚約者が伏している。

しかも相手は錦城金氏の娘。


何もせず放置すれば、周囲が余計な意味を読み取る。


だから来ると、確信を持っていた。


体はどこも悪くない。

熱もない。

頭痛もない。

吐き気もすでに消えている。


昨日の時点で胃の重さも抜けていた。


横になり続けていたせいで、むしろ体が軽いほどだった。

だるさすら、演技をしなければ忘れそうになる。


(健康そのもの)


これは病気ではない。


純度百の演技。


本来の民娥なら、この知らせをどう受けただろうと一瞬考える。


世子が自ら来る。

それだけで胸を高鳴らせるかもしれない。

慌てて髪を整え、涙を浮かべ、弱った姿を見せながら喜びを隠せずにいる。


あるいは、もっと露骨に甘える可能性もある。


(たぶん、嬉しいんだろうな)


けれど民娥には、その方向の感情がまるで湧かない。


正直に言えば、世子の顔よりも先に浮かぶのは別の記憶だった。


あの夜。


祓いの場。


鼻を突く濁った液体の匂い。

口へ押し込まれた時の苦味。

鼻の奥に焼きついた刺激。


飲み込んだ直後に込み上げた吐き気。

胃が反射的に拒んだあの感覚。


(あれ、何だったんだろ)


薬か。

漢方か。

儀式に用いる何かか。


あるいは、わざと不快に作っただけのものか。


分析したい。

成分を確かめたい。

匂いだけでももう一度嗅げれば少し分かるかもしれない。


世子の見舞いより、そちらの方がよほど気になる。


(とはいえ・・・・)


今は立場がある。


興味があるふり。

弱っているふり。

安堵しているふり。


必要なのは感情ではなく役だ。


戸の外で控えめな気配が止まる。

続いて戸が静かに開いた。


世子が部屋へ入ってくる。


足取りは静かだった。

音を立てぬよう意識しているのが分かる。

だが気配そのものは消えない。


立つだけで空気が一段締まる。

人を押しのける強さではなく、そこにいるだけで周囲が形を整える種類の存在感だった。


その後ろに尹怜が距離をとって控えていた。

部屋へ入ったのは必要最小限。


民娥は寝台の上で上体を起こそうとした。

肩に力を入れ、半ばまで起こしてからわずかに止める。


すぐ起き切らない。

少し遅れる。

力が続かぬように見せる。


計算通りに動きを弱めた。


「そのままでいい」


世子の声が落ちる。


低く、抑えられていて、命じる強さはあっても刺さるような冷たさはない。


だが民娥はそこであえて首を振る。


「恐れながら……」


声を少し掠らせる。


喉が乾いているように聞こえる程度に落とす。


そして上座を空ける。


世子の位置を残す。

儀礼として当然の形だ。


病んでいても礼を失わぬ。

それが見た目として最も無難だった。


世子は一瞬こちらを見た。

何か言うかと思ったが、そのまま無言で上座へ座る。


距離が決まる。


近すぎず、遠すぎず。

手を伸ばせば届くほどではない。


だが顔色は十分見える位置だった。


世子は正面から民娥を見た。


逃げる余地のない角度で視線が合う。


「顔を上げよ」


命令というほど強くはない。


だが従わぬ理由はない。


民娥はゆっくり顔を上げた。


ここだ、と頭の中で線を引く。


必要なのは表情。


嬉しい。

安堵。

少しだけ恥じらう。

寝込んでいた弱さ。


それらを混ぜる。


だが配合が難しい。


笑えば元気に見える。

伏せれば冷える。

目を潤ませれば過剰になる。


結果として浮かんだのは、どこかぎこちない柔らかさだった。


(難しいな)


営業用の笑みなら慣れている。


相手に合わせた社交の表情も作れる。


だがこれは別だった。


恋愛感情を前提にした顔。

親しさを含み、期待を隠しきれない表情。


普段使わない筋肉を無理に動かしている感覚がある。


世子の目にはどう映るか。


その視線は長くは留まらない。

だが確かに観察していた。


顔色。

目の下。

唇の色。

肩の落ち方。


病人として見れば十分弱って見えるはずだった。


数日寝台にいた顔は自然に血色が落ちる。

外へ出ぬだけで白さも増す。

動きを遅くするだけで疲れて見える。


疑う理由がなければ、そのまま病人として扱うはずだ。


そして実際、世子の声はわずかに和らいだ。


「無理をするな」


短い一言。


さらに続く。


「ここ数日、よく眠れているか」


ねぎらい。


形式的ではある。


けれど突き放した冷たさではない。


必要だから聞いている。

それ以上でも以下でもない。


民娥は小さく頷いた。


「はい……少しは」


言い過ぎない。

元気とも言わない。

苦しいとも盛らない。


余計な説明は危険だ。


言葉を増やせば綻びが出る。


評価もしない。

恨みも見せない。

探るような目も向けない。


この場で必要なのは役を崩さぬことだけだ。


(私は病人)


(それでいい)


世子の視線は静かに続く。

何かを測るようでもあり、ただ確認しているだけにも見える。


その視線の前で、民娥は呼吸まで浅く整えた。


肩を上げすぎない。

目を逸らしすぎない。

声を待つ姿勢だけ残す。

部屋は再び静かになる。

戸の外の気配も遠い。

香の残りも薄い。


演出した静けさの中で、自分自身までその役へ沈んでいく。


世子が何を読み取っているかは分からない。

だが少なくとも、今この場で崩れてはいない。


そう判断できる程度には、表情も声も持ちこたえていた。


だから民娥はそのまま静かに視線を受け止め、弱った婚約者という役の中に留まり続けた。

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