第42話 行かざるを得ない
世子の執務の場は、昼の光が静かに差し込んでいるにもかかわらず、不思議なほど音が少なかった。
窓の外では風が庭木を揺らしているはずなのに、その気配さえ遠く、室内にあるのは紙の擦れるかすかな音と、香炉から立ちのぼる細い煙だけだった。
机の上には決裁を待つ書が几帳面に積まれている。
冊数だけ見れば軽い量ではない。
だが乱れはなく、一つひとつが順に処理されていることが分かる並びだった。
その机の向こうに座る世子は、筆を持つ手を止めぬまま次の文面へ視線を移していた。
急かされる様子もなければ、苛立ちもない。
ただ淡々と、必要なものだけを見ている。
その場にいるのは世子と、左副承旨の尹怜だけだった。
控えの者も外へ下がらせてあり、扉の外に気配はあっても室内へ口を挟む者はいない。
尹怜は一礼を済ませると、余計な前置きを入れず報告に入った。
「金民娥様ですが、体調不良とのことで、すでに五日ほど床に伏しております」
筆先が紙の上で止まる。
止まったのはほんの一瞬だったが、墨が一点だけ小さく滲んだ。
「五日?」
世子の声は低い。
問い返しただけの短い言葉だったが、その中にわずかな確認の響きがあった。
「はい。五日です」
尹怜は声の調子を変えずに続ける。
「初日は食も進まず、水だけを口にしたと聞いております。その後もほとんど外へは出ておりません」
世子は筆を置いた。
机上に指を添えたまま、しばらく何も言わない。
「三日でも長い方だ」
独り言に近い声音だった。
誰に向けたとも知れぬ呟きだが、それが本心であることは尹怜にも分かる。
民娥が一日大人しくしているだけでも珍しい。
二日なら何か企みがあると考える。
三日続けば周囲が警戒する。
それが五日。
騒ぎも起こさず、姿も見せず、寝台から出ない。
その報告だけで異常だと判断するには十分だった。
尹怜は世子の沈黙を妨げぬ間合いを取りながら、必要な部分だけを続ける。
「御医の見立てでは、身体そのものに大きな異常はないとのことです」
「ただし、疲れがかなり溜まっている様子だと」
世子の視線がわずかに下がる。
机上ではなく、もっと内側を見るような目だった。
昨夜ではない。
五日前の夜のことを思い出しているのだと、尹怜には分かった。
だが世子はそこへ触れない。
言葉にする必要がないからだ。
「疲れ、か」
短く、それだけ。
責めるでもなく、否定するでもなく、ただその語を一度口の中で転がすように発した。
五日。
癇癪を起こし、感情のまま動き、周囲を巻き込むことの多いあの民娥が、五日も静かに伏している。
身体が弱っただけでは説明がつかない。
もちろん寝込むこと自体はある。
熱も出すし、腹を壊すこともある。
だがその場合でも途中で退屈に耐えられず、必ず誰かを呼びつける。
不満を口にし、食事に文句をつけ、何かしらの音を立てる。
今回はそれがない。
必要最低限の返答だけで済ませ、女官にも余計なことを言わせていない。
その静けさがむしろ不自然だった。
世子は机の上に置いていた手をゆっくり離した。
「何か言ったことはあるのか?」
問いは簡潔だった。
尹怜はすぐに理解する。
寝込む理由ではなく、寝込みながら何を周囲へ見せているかを問うている。
「ほとんど話しておりません。しばらく休む、それだけだそうです」
「騒ぎは?」
「ありません」
「癇癪も?」
「確認されておりません」
そこまで聞いて、世子はわずかに眉を動かした。
表情と呼ぶほどではない。
だが確かに反応だった。
騒がぬ金民娥。
むしろその方が読みづらい。
怒るなら怒る。
泣くなら泣く。
恨み言でも投げてくるならまだ扱いやすい。
だが何もせず伏しているとなれば、内側で何を整理しているか分からない。
(あり得ないとは言わない)
世子は心の中でそう整理する。
体調を崩したのは事実だろう。
それだけで五日間も静かにしているなら別の意図も混じる。
放置すれば周囲が騒ぐ。
婚約者である以上、錦城金氏の娘が寝込んでいると知りながら世子が何も動かぬとなれば、別の解釈が生まれる。
冷遇。
不和。
あるいは婚約自体への不満。
どれも口に出されぬまま広がる類のものだ。
宮中は静かな顔で、そういう話ほど早く伝わる。
「このまま放っておくのも不自然だな」
世子は静かに言った。
尹怜は小さく頷く。
「はい。お立場を考えれば、なおさらです」
婚約者という肩書きは、本人たちの感情とは別に働く。
好悪とは無関係に、人目の上では一定の形を取らねばならない。
見舞いに行く。
それだけで十分だった。
行かなければ、別の意味を与える。
世子は机上の書を閉じた。
今日処理すべきものはまだ残っている。
だが後へ回せぬ量ではない。
「確認しに行く」
即断ではない。
だが言った時点で迷いは消えていた。
尹怜はそれ以上勧める言葉を重ねない。
最初から、その判断に落ち着くと読んでいた。
必要なのは確認だけだ。
病状を見ること。
顔色を見ること。
そして五日間沈んでいる理由を、自分の目で確かめること。
世子が視線を上げる。
「派手にするな」
「静かに行く」
それだけで十分だった。
供を大勢連れれば、それだけで騒ぎになる。
見舞いではなく視察のように見える。
そうなれば民娥の側も構える。
尹怜は深く礼をした。
「承知しました」
声は変わらず平坦だった。
だが必要な段取りはすでに頭にある。
道を整え、無駄な出入りを避け、知らせも最小限に留める。
世子が向かうと知られる範囲は絞るべきだ。
会話はそこで切れた。
理由を並べることもない。
感情を共有することもない。
だが判断は一致している。
五日も寝込む。
それは無視できる状態ではない。
世子は静かに立ち上がった。
衣擦れの音だけが室内に落ちる。
机の横に置かれた外衣へ手を伸ばし、乱れなく整える。
急ぐ様子はない。
しかし動きに無駄もない。
尹怜は一歩下がり、必要以上に近づかない。
こういう時、世子は余計な言葉を嫌う。
それでも胸の内では一つだけ考える。
金民娥が本当に弱っているなら、今日は大人しいだろう。
だがもし静かに伏しながら別の計算をしているなら、その目は必ず以前と違っている。
五日も沈黙する者は、何も考えていないはずがない。
世子もまた同じことを思っていた。
(行かざるを得ない)
見なければ判断できないからだ。
あの夜に見せた反応が一時のものだったのか。
それとも内側で別の形に変わったのか。
確かめる必要がある。
世子という立場は、時に感情より先に足を向けさせる。
だが今回ばかりは、それだけでもなかった。
扉が開かれ、外の光が差し込む。
控えていた者たちが気配だけで身を整える。
世子は何も言わずに歩き出した。
その後ろを、一定の距離を保って尹怜が続く。
静かな執務の場には再び誰もいなくなり、机上に残された書だけが、さきほどまでの会話が確かにあったことを示していた。




