第37話 籠の中の復習
迎えが来ること自体は、すでに予想の内に入っていた。
深夜ではない。
まだ夕方の光が完全には消えきらず、障子の外に残る明るさが畳の縁に細く落ちている時間帯だったが、それでも次に呼ばれるのは遠くないだろうと民娥は考えていた。
だからこそ、障子の向こうから低く抑えた声が届いたときも、驚きはしなかった。
「大妃様より、籠にて参るようにとのことです」
女官の声だった。
礼を崩さず、余計な色を乗せない言い方で、それが命令であることだけを静かに伝えてくる。
籠。。。。
その言葉を聞いた瞬間、民娥は視線だけをわずかに落とした。
歩かせるつもりは最初からない。
そう判断する。
呼びつけるのではなく運ばせる。
つまり、途中で誰かと顔を合わせる余地を減らし、余計な目を避けるつもりなのだろう。
奇行のあと。
池への転落。
深夜にはお祓いの話まで進んでいる。
ならば、この移動もまた「見せないため」の一部だった。
民娥は立ち上がり、袖の乱れだけを指先で整えた。
先ほど暴れた形を残したままでは不自然だが、整えすぎても違う。
最低限だけ整える。
髪に触れ、衣の合わせを確かめ、呼吸をひとつ浅く整える。
部屋の中央に残っていた座布団や引き出しには目も向けず、そのまま障子の前へ進んだ。
開かれた向こうには、すでに籠が置かれている。
飾りの少ない宮中用の籠だった。
必要以上に華美ではなく、しかし簡素すぎもしない。
運ぶ者たちは四人。
その後ろに付き従う人数も絞られている。
余計な人間を増やさない配置だった。
一人で乗れ。
言葉にされなくても、そういう意味だと分かる。
民娥は誰の手も借りず、そのまま籠へ乗り込んだ。
裾を軽く持ち上げ、足を折り、狭い内部へ身体を収める。
中に入るとすぐ扉が閉じられる。
外の空気が一段遠くなり、木の薄い匂いが近づいた。
次の瞬間、籠が持ち上がる。
肩へ乗せた担ぎ手たちの呼吸がそろい、ゆっくりとした揺れが始まった。
一定の高さで進み、揺れは思ったより小さい。
歩幅がそろっている証拠だった。
外からは、最小限の付人たちの足音がついてくる。
規則正しく続くその中に、ソヨンの足音も混じっていることが分かった。
姿は見えない。
だが歩き方で分かる。
民娥は籠の内側へ背を預け、軽く目を閉じた。
暗いわけではない。
小さな隙間から夕方の光が細く入り、木の内側に柔らかい線を作っている。
その薄い光の中で、民娥は頭の中を整理し始める。
復習。
先ほど聞いた「癇癪の型」。
四つあると言われたものを、順に並べる。
ひとつ目。
父、あるいは大妃に会ったあと。
言われたことが気に入らなかったとき。
権威そのものには正面から逆らえない。
だが飲み込めない。
だから直接ではなく、部屋へ戻ったあとで暴れる。
人に当たり、物を投げ、声を上げる。
命令を拒絶するのではなく、受けたあとで歪ませる形。
分かりやすい。
正面から逆らえない者の反発としては、むしろ自然だった。
ふたつ目。
世子が唐順希と会っているのを見たとき。
あるいは、その噂を耳にしたとき。
ここで民娥は目を閉じたまま小さく息を吐く。
独占欲。
被害妄想。
嫉妬。
しかも相手が宮中の同年代の娘であれば、なおさら反応が大きい。
面倒だった。
この型は再現も制御も厄介だと直感する。
理由が感情の中にありすぎる。
演じるにしても、周囲が何を期待しているかを読む必要がある。
みっつ目。
人や物にぶつかったとき。
転んだとき。
自分の不注意を認められない。
だから、目の前にいた者へ向く。
誰かが悪い。
何かが悪い。
そうしなければ収まらない。
これは比較的単純だった。
衝動の向き先が明確で、しかも周囲も慣れている。
よっつ目。
同年代の女子が集まり、楽しそうにしているとき。
そこで民娥は目を開けた。
説明は不要だった。
理由を並べなくても、その形だけで十分に見える。
輪の外にいること。
入れないこと。
呼ばれないこと。
それだけで機嫌が崩れる。
この器は、本当に面倒な女だと改めて思う。
救いがひとつもない。
籠が少し大きく揺れた。
角を曲がったらしい。
担ぎ手の足運びが一瞬だけずれ、すぐまた整う。
外から聞こえる足音も、それに合わせてわずかに間を変えた。
民娥は衣の内側へ指を滑り込ませる。
胸元に隠していた小さな包み。
布をほどかず、中の菓子を指先でちぎる。
ほんの少しだけ。
口へ運ぶ。
噛まない。
舌の上へ置き、そのまま転がす。
白い部分はすでに柔らかく崩れ、赤い部分のかすかな味が残る。
甘いとも言い切れず、わずかに酸味もある。
飲み込まない。
喉へ落とさず、口内に残す。
しゃべれる程度に保ち、意識だけをそこへ寄せる。
味があると、思考が散らない。
いま自分がどこへ向かっているかを身体に留めやすい。
籠の揺れ。
木の匂い。
外の足音。
口の中の甘さ。
その全部を並べる。
癇癪は使うもの。
飲み込まれるものではない。
そう分かっているはずなのに、
ほんの一瞬だけ、
喉の奥に引っかかる感覚が残った。
必要になれば見せる。
必要がなければ残す。
そう切り分けるしかない。
籠は静かに進み続ける。
障子の向こうを通る気配、遠くで女官が下がる音、風が廊を抜ける気配が断続的に届く。
夕方の宮は昼より静かだが、夜ほど閉じてはいない。
どこかでまだ器が片づけられ、遠くで声が低く交わされる。
それでも籠の内側は不思議なほど静かだった。
民娥は背筋をわずかに起こし、唇の内側で菓子を押さえながら目を開ける。
大妃のもとへ向かうまで、もう長くはない。
この先で必要なのは、静かさか、従順か、それとも少しの不安か。
どの顔を出すべきかを、最後にもう一度だけ考えながら、民娥は揺れの先に意識を向けた。
その答えが、まだ一つに定まっていないことを、民娥自身がいちばん理解していた。




