第38話 祈りの名を借りたもの
籠の揺れがゆるやかに小さくなり、そのまま静かに止まった。
担ぎ手たちの呼吸がそろって止まり、外の足音も同じように途切れる。
民娥はその変化だけで、到着したことを理解した。
当然のように、大妃の居所だと思っていた。
呼び出しがあった以上、まず向かうのはそこだと考えるのが自然だったし、深夜のお祓いの前にもう一度顔を見せるにしても、大妃の前で何か言葉を受ける流れだろうと予想していた。
だからこそ、籠の扉が開いた瞬間に視界へ入った建物へ、わずかな違和感が生じた。
ここか。
口には出さない。
だが視線は自然と周囲を探る。
派手ではない。
宮中の中にあって目立つ装飾はなく、色も抑えられている。
しかし、抑えられているわりに整いすぎていて、人が普段暮らす場所とは違う緊張があった。
柱の位置、障子の張り替え具合、庭先に落ちている葉の少なさまで、誰かが常に整えている空気がある。
それなのに人の気配が薄い。
静かすぎた。
夕方の宮なら、どこかで器の音や話し声が混じる。
だがここにはそれがない。
風が草をわずかに鳴らしても、人の生活が重ならない。
籠から降りると、そばに控えていた女官が一歩だけ前へ出て、低い声で告げた。
「こちらは、王妃様がお祈りを捧げられるためにお造りになった建物です」
王妃。
その言葉に、民娥は顔を変えないまま内側でだけ考えを止める。
大妃ではない。
錦城金氏の王妃。
つまり、王の正室。
ここで初めて呼ばれる相手としては、予想の外だった。
祈り。。。。
その説明もまた、余計に引っかかる。
民娥はわずかに視線を上げ、建物の奥へ向ける。
祈りね。
心の中でだけ呟く。
現代の記憶がふと頭をかすめた。
この時代、少なくとも表向きには宗教色の強すぎるものは扱いにくかったはずだ。
正式な儀礼として組み込まれたものならまだしも、「祈りのためだけの場所」という説明はどこか裏に何かを隠している響きがある。
しかも、その場所へわざわざ自分を運ばせる。
嫌な予感しかしない。
女官に促されるまま、中へ足を進める。
扉をくぐった瞬間、空気が変わった。
香の匂いが濃い。
焚かれている量が多い。
甘いというより、鼻の奥へ重く残る種類で、吸い込むたびに喉へ薄く張りつく。
壁際には色の濃い布が垂らされ、文様の意味は分からないが、ただ飾りではないことだけは伝わる。
床には円を描くように道具が置かれていた。
木。
紙。
細い器。
紐。
小さな皿。
意図的な配置だ。
怪しい。
率直にそう思う。
祭壇が正面にあった。
高すぎず低すぎず、人の目線よりやや上に位置し、そこに小さな灯りがいくつか置かれている。
その左側に、王妃が座していた。
背筋は伸び、衣の重みを感じさせないほど姿勢が崩れない。
表情は静かで、目元にも口元にもほとんど動きがない。
視線は民娥の方へ向いているが、真っすぐ見ているようでいて、どこかその奥を通しているようにも見えた。
観察しているのか、ただ儀式を見ているのか判別しづらい。
だが視線は、民娥そのものではなく、その“反応”を追っているようにも見えた。
その前、中央にはひとりの女が立っていた。
巫女らしい。
年齢は分からない。
顔を伏せ気味にしていて、灯りの位置のせいで表情が読み取りにくい。
衣は白を基調としているが、宮中の女官とも違う。
声もまだ発しない。
沈黙のまま立ち、その両手だけがわずかに前で重なっていた。
民娥は指示されるまま中央へ進む。
歩幅を乱さず、床に置かれた道具を避けながら進み、決められた位置で止まろうとしたその瞬間だった。
「座りなさい」
低い声が落ちる。
命令だった。
誰の声か判断するより先に、足元へ何かが触れる。
次の瞬間、足首に巻きつく感覚が走った。
えっっ?!、と心の中でだけ反応する。
紐だった。
強く引かれたわけではない。
だが動きを止めるには十分な速さで、両足がまとめられる。
力任せではなく、慣れた手つきだった。
逃げる余地だけをなくす結び方。
暴れた場合の動きまで、最初から想定されている。
反射的に身体を引こうとして、民娥はその直前で判断を切り替える。
ここで暴れる場面ではない。
そう理解する。
抵抗すれば、その反応自体が材料になる。
だから動かない。
そのまま膝を折らされる。
畳へ座らされる感覚が膝から伝わる。
続いて両手。
後ろへ回される。
袖の内側を抜けるように紐が入り、手首に触れたあと、すぐ締まる。
簡単にはほどけない。
緩く見えて、指をひねっても隙間が作れない結び方だった。
(……は?)
心の中でだけ叫ぶ。
声には出さない。
奇声も罵声も出さない。
口の中では、さきほど飲み込まずに残していた菓子がまだ舌の端に残っている。
甘さが薄く崩れ、赤い部分の味がかすかに残っていた。
拘束。
儀式。
祈りの場所。
どう見ても「祈る」だけの空気ではない。
香がさらに焚かれる。
誰かが新しく火を足したらしく、匂いが一段濃くなる。
空気が重くなる。
室内の温度まで変わったように感じる。
王妃は微動だにしない。
その表情も変わらない。
目の前で若い娘が縛られていても、そこに感情は差し挟まれない。
巫女がゆっくりと両手を上げた。
動きは大きくない。
だが迷いがない。
決まった順番をなぞるように、指先まで一定の速度で上がる。
民娥は背筋を崩さず、その動きを見た。
口の中の菓子を舌で静かに転がす。
飲み込まない。
喉へ落とせば呼吸が変わる。
それは避ける。
平静を保つための目印として残す。
よし、と心の中でだけ整える。
ここはまだ見る場面だ。
ここで誤れば、そのあとが来ない可能性もある。
いま何をされるか。
誰がどこまで関わっているか。
王妃が何を見ようとしているか。
まずはそこを見る。
香の煙が灯りの前で細く揺れ、巫女の影が床へ長く落ちる。
外では夕方の光がさらに薄れ始めていた。
扉の向こうの明るさが少しずつ沈み、室内の灯りだけが輪郭を強くする。
民娥は縛られた手の感触を確かめながら、目だけを動かして祭壇の配置まで記憶に入れる。
儀式は、もう始まっていた。
止める側ではなく、対象として。




