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鏡の王宮、眠る身体、動く身体 ーー体が動く間、別の名が呼ばれるーー  作者: 明日葉


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第35話 いつも通りの歩幅

朴紘範と尹怜は、その場を離れると、ほとんど同じ歩幅のまま自然に進む速度を揃えた。


どちらからも言葉は出ない。


何かを確認する必要がないというより、いま口にしたところで増える情報がないことを二人とも理解していた。


向かう先は最初から一致している。

世子のところだ。


だから進む方向にも迷いはなく、宮廷内の道が折れるたびに互いの足運びだけが静かに揃っていった。


歩みは早い。


だが、決して走らない。

宮中を駆けるほど取り乱してはいないし、わずかな異変で見苦しく慌てる立場でもない。


それでも自然と歩幅は広がり、足裏が地面をを押す力だけが少し強くなる。


急ぎ足だった。


朴紘範はその感覚に、ふと西京大学病院の救急外来で身についた癖を重ねる。


急変ではない。


だが、今のうちに行っておいた方がいい患者がいる。


まだ走る必要はないが、遅れる理由もない。


あのときと同じ種類の速度だった。


視線は前に向けたまま、朴紘範は心の中で静かに整理する。


いつも通りだ。


声を聞いたわけではない。


障子の向こうを見たわけでもない。


だが確認したのは音ではなく型だった。


正室候補の居所周辺に滞る空気。

立ち止まった宮女たちの距離。

視線を伏せた付人の位置。

そして左賛成が扉の前で一瞬だけ足を止め、そのまま何も言わずに去った流れ。


何一つ崩れていない。


乱れたように見えても、配置そのものは崩れていなかった。


変わっていない。


それは安心ではない。


ただ、想定の枠内に収まっているというだけの確認だった。


隣を歩く尹怜も、ほぼ同じ結論に達していた。


問題なし。


正確には、問題が存在しないのではなく、いま触れて増える問題がないという意味に近い。


左議政が立ち寄る。

中の騒ぎを止めない。

周囲も誰一人声をかけない。

報告も追従も起きない。


その流れが寸分違わず繰り返されていた。


ならば、いま触る必要はない。


触れれば面倒が増える。

触れなければ、そのまま流れる。


宮中ではそれだけで十分な判断になることが多い。


二人は何も言わないまま廊を曲がる。


灯りは一定の間隔で置かれ、足元に落ちる影だけが静かに伸びていた。


宮中はいつでも広く感じられる。


わずかに冷えており、その冷たさが足元から上がってくる。


途中、遠くの道で女官が一人頭を下げたが、二人とも視線だけで返し、そのまま歩みを止めなかった。


余計な言葉を挟む場面ではない。


やがて視界がひらける。


池が現れる。


青い空の色をそのまま沈めたように澄んだ青色だった。


風はほとんどなく、波紋も小さい。


池の縁には屋根付きの四阿があり、その輪郭だけが灯りに淡く浮かんでいる。


そこに世子の姿があった。


端正な姿勢で座り、池に背を向けるでもなく、かといって水面を眺めるでもなく、ただ正面に置かれた人物の話を受けている。


隣にいるのは側室候補の唐順希だった。


順希は楽しげに話していた。


表情は柔らかく、手の動きも自然で、声に抑揚がある。


ときおり肩を少し傾け、指先で軽く空気を切るようにして言葉を添える。


おそらく意図しているのだろう。


話を軽く見せ、相手に負担をかけない距離を保つための身振りだった。


だが、それでも主導権は彼女の側にある。


世子は笑っていない。

表情は穏やかだったが、口元はほとんど動かず、目も細めない。


拒絶しているわけではない。


ただ、受け止めているだけだった。


聞いている。

否定はしない。

だが自分から空気を膨らませることもしない。


談笑というより、順希が言葉を差し出し、世子がそれを静かに受け取っているだけの構図だった。


その均衡が、二人の接近でわずかに揺れる。


唐順希が最初に気づいた。


視線が上がり、四阿の外に近づく二人を捉えた瞬間、言葉が一拍だけ止まる。


だが崩れない。


すぐに口元を整え、背筋を伸ばし、座ったまま柔らかく頭を下げた。


その動きには慣れがあった。


急な場面でも見苦しくならない。


育てられた家の空気が見える。


朴紘範と尹怜は歩調を緩めずに近づく。


四阿に入る直前で速度だけをわずかに落とし、決まった距離で止まる。


そして揃って深く礼をした。


角度も、間も、ほぼ同じだった。


世子はそれを見て軽く頷く。


言葉はない。


だが、それで十分だった。


許可も確認も、その頷きひとつで足りる。


唐順希はその空気を読んでいた。


すぐに一歩下がる。


余計な間を置かず、再び丁寧に一礼する。


その動きにも迷いがない。


話を中断された不満も、探るような視線も見せないまま、静かに四阿を出ていった。


振り返らない。


足音も小さい。


去ると決めたら、未練を残さない歩き方だった。


やがて四阿には三人だけが残る。


空気が一段静かになる。


さきほどまで順希の声で薄く揺れていた空間に、水音だけが戻ってきた。


池の縁で小さく鳴る水の音。


遠くで揺れる木の葉。


どこかで野鳥が短く鳴いた気配。


それらがようやく耳に入る。


ここからが本題だった。


だが、まだ誰も口を開かない。


世子も、朴紘範も、尹怜も、その沈黙を急がない。


急ぐ必要はある。


だが慌てる必要はない。


その距離感こそが、この三人の間では何より崩してはいけないものだった。


朴紘範は視線を上げず、世子の気配だけを読む。


世子もまた、先に問わない。


尹怜はその横で呼吸だけを整えている。


誰が最初に口を開くかは問題ではない。


重要なのは、最初の一言が余計な色を持たないことだった。


池の水面に灯りが揺れる。


四阿の柱に落ちた影が静かに伸びる。


宮中は広く、静かで、その静けさがかえって三人の沈黙を際立たせていた。


今はまだ、何も崩れていない。


そう見えているだけだと、三人のうち、誰も口にはしなかった。


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