第34話 部屋の扉の向こうを通り過ぎる人々
その部屋の外には、室内とはまた別の緊張が漂っていた。
熱気というほどではない。
けれど、ただ静かなわけでもない。
扉一枚を隔てた向こう側から、断続的に届いてくる音が、その場に立つ者たちの呼吸を微妙に揃えさせていた。
甲高い声が突然鋭く響き、そのあとに何かが床へ当たる鈍い音が続く。
布が擦れる気配。
木がぶつかる音。
それに混じる、泣き声まじりの懇願。
あまりにも聞き慣れた騒ぎだった。
廊下に集まっている女官たちと付き従う者たちは、それぞれ違う表情のまま、その場に立ち尽くしていた。
ある者は視線を落ち着きなく泳がせている。
今にも駆け込もうとする気配はある。
だが、足は動かない。
踏み出すべきだと分かっていても、動けない。
どうしていいか分からないというより、どうにもならないことをすでに知っている顔だった。
止めたところで収まらない。
声をかけても逆効果になる。
入れば次の標的になる。
それを何度も見てきた者の表情。
一方で、廊下の柱へ軽く背を預け、半ば目を伏せたまま動かない者もいる。
諦めだった。
慣れとも言える。
今日もまた始まった。
ただそれだけ。
緊張はあるが、驚きはない。
耳は音を拾っているのに、身体はすでにその騒ぎを日常として処理している。
扉の向こうから、また一つ鋭い声が上がる。
その直後に木がぶつかるような音。
小さな物なら投げられたのだろうと誰もが自然に想像する。
続いて女官の声。
震えているが、どこか決まり文句のようにも聞こえる。
「お嬢様、おやめください……」
その言葉で、廊下に立つ何人かがわずかに目を伏せた。
止めるための言葉ではない。
もう形として口にしているだけだと知っている。
そこへ足音が一つ近づいてきた。
乱れのない歩調だった。
一定の速さで、無駄がない。
廊下の奥から現れたその姿に、女官たちの空気が一瞬で変わる。
左議政。
民娥の父だった。
その姿が見えた瞬間、そこにいた者たちは一斉に背筋を正す。
誰かが声を出すこともない。
名を呼ぶ必要もない。
ただ自然に姿勢が整う。
左議政はその反応に何も示さない。
歩調を崩さず、そのまま進む。
視線もまっすぐだ。
廊下の中央を乱れなく歩き、閉ざされた扉の前でようやく一瞬だけ足を止めた。
ほんの短い停止だった。
耳を澄ますわけでもない。
扉へ顔を寄せるわけでもない。
ただ、そこに立つ。
向こうから聞こえる音は変わらない。
奇声。
鈍い物音。
女官の懇願。
布が擦れる気配。
どれもすでに聞き慣れたものだ。
いつもの民娥。
左議政の表情は一切変わらない。
眉一つ動かさない。
何かを案じる気配もなく、怒る様子もない。
ただ、その場に一瞬存在し、状況を確認しただけ。
そして何も言わない。
誰にも指示しない。
扉を開けることもしない。
そのまま静かに踵を返し、来た道を乱れなく戻っていく。
背筋は変わらず伸びたまま。
歩幅も最初と同じ。
一人の女官が、ごく小さく息を吐いた。
隣にいた付き人は視線を落とす。
誰も呼び止めない。
追わない。
あの人が何も言わず去るなら、それ以上動かない。
そこに判断が含まれている。
扉の向こうからまた音が響く。
今度は布が床を叩く鈍い音で、そのあとに高い声が重なった。
それでも廊下に立つ者たちは動かない。
左議政の背中が角を曲がって見えなくなった頃、別の足音が近づいた。
今度は二人分だった。
軽すぎず、重すぎず。
会話をしていた流れが途中で止まったような歩き方。
偶然通りかかったのは、朴宏範と尹怜だった。
廊下の空気を感じ取った瞬間、二人とも自然に足を緩める。
すぐ前方に左議政の背中がまだ残っている。
その姿を視界に入れた瞬間、二人はほとんど同時に姿勢を正した。
深く礼をする。
左議政は振り返らない。
それでも礼は必要だった。
相手が背中でも、礼を欠く理由にはならない。
二人はそのまま数歩、背中が遠ざかるのを黙って見送る。
左議政はやがて角を曲がり、完全に見えなくなる。
その瞬間、朴宏範が小さく息を吐いた。
「なるほどな」
声は低く、独り言に近い。
誰かに説明するためというより、自分の中で確認するような響きだった。
尹怜も扉の方へ視線を向ける。
中から聞こえる音はまだ続いている。
変化はない。
物が当たる音。
女官の泣き声。
高い声。
どれも一定の間隔で続く。
「いつもの、だな」
それは疑問ではなく確認だった。
朴宏範も頷かない。
否定もしない。
だが、その視線はほんの一瞬だけ、扉の一点に留まった。
音の“間”を測るように。
すぐに外れる。
何もなかったかのように。
それは疑問ではなく確認だった。
そのまま二人とも立ち止まらない。
女官たちへ視線を向けることもなく、そのまま歩き出す。
ここで足を止める理由は何もない。
すでに状況は見えている。
左議政が去った。
誰も入らない。
中はいつもの騒ぎ。
ならば、それ以上関わる意味はない。
二人は扉の前を静かに通り過ぎる。
その瞬間、中からまた鋭い声が響いた。
だが二人の歩みは止まらない。
騒ぎは日常。
確認は終わった。
そういう空気だった。
やがて二人の足音も遠ざかる。
そこには、立ち尽くす女官たちと付き人だけが残った。
誰も扉へ手をかけない。
誰も相談しない。
ただ、聞いている。
向こう側で続く音を。
今日もまた、あの部屋ではいつもの光景が続いている。
そう思うしかないまま、音だけが続けていた。
だが、その音の中に、
一つだけ"いつもと違う間"が混じっていたことに、気付いたものはいなかった。




